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歌舞伎役者徳川宗春 

2015年02月16日 外部ブログ記事
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御三家の大名徳川宗春

江戸時代中期の大名、尾張徳川家7代当主・藩主
尾張藩主で、規制緩和政策をとった徳川宗春は、質素倹約策の8代将軍徳川吉宗と対比されます










徳川宗春(ネットより引用)

徳川宗春の尾張藩主迄
尾張藩3代藩主徳川綱誠の二十男として生まれる
徳川吉宗お気に入りで、御家門衆として将軍吉宗に大切にされる
吉宗から、梁川藩3万石を与えられ、大久保松平家を再興する

徳川宗春の尾張藩主
兄・尾張藩6代藩主徳川継友の遺言で、尾張徳川家宗家を相続し7代当主となる
藩主時代、公儀の法度・代々の法規を守るべきこと・藩邸内での歌舞音曲の許可・夜の外出の許可令を出す
「行き過ぎた倹約は庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張を掲げた
質素倹約を、基本方針とする幕府の享保の改革は、緊縮政策が経済停滞を生み、弊害になるの政策
宗春は、朝廷との関係を大切にし、東照宮祭・尾張祇園祭、盆踊り等の祭りを奨励した


徳川宗春尾張藩主としての享保の改革
幕府は享保の改革を推進する将軍徳川吉宗のもと、質素倹約規制強化が徹底しており、祭りや芝居などは縮小・廃止されていた
徳川宗春は、逆を行く、規制緩和をして民の楽しみを第一に政策を進めていく
緊縮財政・法規制の強化をする幕府に対し、開放政策・規制緩和の尾張藩となる
名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策で名古屋の町は賑わっていった
幕府の倹約経済政策に自由経済政策理論をもって立ち向かったのは、江戸時代の藩主では宗春だけです
名古屋の町は活気を得て、その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた

徳川宗春の隠居謹慎
幕府の緊縮規制強化の経済政策は、失敗しており、一方で宗春の規制緩和の経済政策は大成功を収めていた
徳川宗春は、遊興禁止令等、幕府の政策を先取りして尾張藩を運営していた
朝廷内では、親幕府派の近衛家と、反幕府の霊元法皇が対立していた
朝廷派は、尾張藩を持ち上げる幕府攻撃に利用した為、朝廷との間で、宗春と尾張藩は政略的に板挟みとなる
幕府の威信が揺らぐと判断していた幕閣は考え、徳川宗春は隠居謹慎を検討する
将軍吉宗からの隠居謹慎命令を徳川宗春受け、名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎させられる

隠居謹慎後の宗春
蟄居謹慎先は、実母泉光院の三之丸の屋敷で、悠々自適の生活を送れていた
将軍吉宗も宗春の蟄居謹慎に「不足しているものはないか」等気を遣っていた
享年69(満67歳没)

宗春が隠居してからの幕府と名古屋
徳川宗勝が8代藩主となり、名古屋も質素倹約が奨励され、名古屋城下の賑わいは火が消えたようになった
10代将軍家治の時代には、幕府の政策は田沼意次が主導し、重商主義政策へと転換する
尾張藩も9代藩主宗睦となり、名古屋は再び賑わい、宗睦は尾張藩中興の祖とまで呼ばれている

墓石と遺骸・墓石修復等
宗春は、土葬で埋葬され、明治期の発掘調査ではミイラ化した状態で見つかった
戦後、市内の墓が平和公園に移転し、宗春の墓も移されるとともに遺骸は火葬された
「尾張七代藩主徳川宗春公を大河ドラマにしよまい」という動きが名古屋で盛り上がっています

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