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池田屋事件で、明治政府誕生? 

2015年01月16日 外部ブログ記事
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池田屋事件とは?

旅館池田屋で会合中の長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王攘夷派志士を新選組が殺傷、捕縛した事件です
原因は、京都御所放火計画等の発覚し、新撰組が未然に防いだ事件です








池田屋事件(ネットより画像引用)

池田屋事件の背景
長州藩は、宮中クーデター(八月十八日の政変)で失脚し、朝廷では公武合体派が主流でした
尊王攘夷派は、勢力挽回を試みており、新選組は、その取締りで、京都市内の警備や捜索を行っていました
尊皇攘夷派は、「祇園祭の風の強い日、御所に火を放ち、一橋慶喜らを暗殺、孝明天皇を長州へ連れ去る」案でした
長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が、襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋で行われていました

池田屋事件
京都の池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、新選組が襲撃した事件です
新撰組は、数名で突入し、真夜中の戦闘となり、土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾く
新撰組は、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げました
戦闘で数名の尊攘派は逃走しましたが、翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し20余名を捕縛
桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、池田屋を出て他の場所に居たので難を逃れました

池田屋事件の影響
御所焼き討ちの計画を未然に防いだ新選組の名は、天下に響きました
長州藩では、池田屋事件をきっかけに、挙兵・上洛し禁門の変を引き起こしました
池田屋事件は、尊攘派を刺激し、維新を早めました
作家の司馬遼太郎は、「池田屋事件がなかったら、薩長土肥主力の明治維新は永遠にこなかった」と記述しています

池田屋事件後の池田屋
尊攘派志士をかくまった主人の池田屋惣兵衛は捕らえられ獄死した
親類により近くで再開したが、のちに廃業し現存していません
現在池田屋の地には、「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」があります

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