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江戸の文化人(貝原、後水尾天皇) 

2014年12月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



江戸時代の文化人

貝原益軒  ⇒本草学者、儒学者
後水尾天皇 ⇒天皇、上皇






















江戸の文化人(ネットより引用)

貝原益軒
福岡藩主黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送る
藩主黒田光之に許され、藩医として帰藩し、京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ
帰藩し、藩内で朱子学の講義、朝鮮通信使への対応をまかされた
自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ
世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている
著書に『大和本草』『菜譜』『花譜』といった本草書、教育書の『養生訓』『和俗童子訓』『五常訓』等が有る

後水尾天皇即位の経過
父後陽成天皇は、弟宮の八条宮智仁親王を天皇に立てる事を望んでいた
徳川家康は、嫡出男子であった第3皇子の政仁親王の擁立を求め、後陽成天皇はこれを受け入れた
父後陽成上皇との不仲は続き、天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた

江戸幕府は朝廷の行動の統制を行う
「公家衆法度」「勅許紫衣法度」を制定し、「禁中並公家諸法度」を公布した
朝廷の行動が、京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれ、公卿や上皇は政策決定過程から排除さた
天皇が即位すると、徳川家康は徳川和子の入内を申し入れ、入内宣旨が出される
江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は、幕府への通告をせず二女の興子内親王に譲位した

徳川家の朝廷に対する柔軟策
「院政の否定」を朝廷の基本政策としてきた幕府は、後水尾上皇の院政を認めざるを得なかった
85歳の長寿で崩御し、京都市上京区の相国寺境内には、後水尾天皇髪歯塚が現存する
昭和天皇は、長寿に関して「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」とコメント
日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる額が掲げられている

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