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旦那信康を殺した妻徳姫? 

2014年10月22日 外部ブログ記事
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「信康切腹、真犯人は家康」新説の信憑性は?

「徳姫の12カ条」自体は信頼性の低い資料です
家康に仕える浜松城の家臣たちと、信康に仕える岡崎城の家臣たちも激しく反目しあっていました
徳川家は真っ二つに割れる寸前で、信長がむしろ徳川家を救うために仲裁に入り、徳川家を一つにまとた
産経新聞記事より














信康(ネットより引用)

徳川家康と織田信長は同盟
破られることのなかった、戦国時代まれな「清洲同盟」
家康の長男信康と信長の娘徳姫が結婚し、家康は浜松城に移り、信康に岡崎城を譲りました
信康は、武田氏との戦いで活躍し、岡崎城の武士たちを率いて、家康をよく補佐しました
徳姫とのあいだには、2人の女の子が生まれました

順風満帆にみえた信康の悲劇
翌日信康は岡崎城を出ることになり、大浜城に移されました。その後、遠江の堀江城、さらに二俣城に移されます
徳姫は父の信長に、信康とその母の築山殿の罪状を訴える12カ条の訴状を書きを送りました
訴状には、武田家との内通などが記されていました
信長は彼らの処罰を命じ、築山殿は殺害され、信康も切腹しました(享年21歳)

新説への疑問?その理由とは?
信康が自害した後、徳姫は娘2人を徳川家に残し織田家に帰ります
徳姫は、徳川家から再婚を世話してもらえず、ひっそりと暮らし、京で78歳で亡くなりました
残した娘2人は、大名家に嫁いでいますが、娘が母を引き取ることをしていません
徳川家にすれば、長男信康の死の片棒を担いだ徳姫、コンチクショー!との思いでしょうね

                   ◇

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