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2014年09月18日 外部ブログ記事
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略歴[編集]

後水尾天皇 雅歌 色紙
後陽成天皇はかねてから第1皇子・良仁親王(覚深法親王)を廃して、弟宮の八条宮智仁親王を立てる事を望んでいた。
だが、関ヶ原の戦いによって新たに権力の座を手に入れた徳川家康もまた皇位継承に介入し、良仁親王の出家(皇位継承からの排除)は認めるものの、これに替わる次期天皇として嫡出男子であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。
最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、結果的には自己の希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対しても良仁親王と同様に冷淡な態度を取るようになった。
慶長16年(1611年)3月27日に後陽成天皇から譲位され践祚。4月12日に即位の礼を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。
江戸幕府は朝廷の行動の統制を目的として慶長18年6月16日(1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣(しえ)法度」を制定し、次いで、豊臣宗家滅亡後の慶長20年7月17日(1615年9月9日)には「禁中並公家諸法度」を公布した。
以後、朝廷の行動全般が京都所司代を通じて幕府の管理下に置かれた上に、その運営も摂政・関白が朝議を主宰し、その決定を武家伝奏を通じて幕府の承諾を得る事によって初めて施行できる体制へと変化を余儀なくされた。これによって摂家以外の公卿や上皇は朝廷の政策決定過程から排除され、幕府の方針に忠実な朝廷の運営が行われる事を目指していた。
天皇が即位すると大御所徳川家康は徳川和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。しかし、入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、天皇と寵愛の女官・四辻与津子との間に皇子・皇女が居た事が徳川秀忠に発覚すると入内は問題視される、翌元和5年9月15日に秀忠自身が上洛して、与津子の振る舞いを宮中における不行跡であるとして和子入内を推進していた武家伝奏広橋兼勝と共にこれを追求した。
そして万里小路充房を宮中の風紀の乱れの責任に問い丹波篠山藩に配流、与津子の実兄である四辻季継・高倉嗣良を豊後に配流、更に天皇側近の中御門宣衡・堀河康胤・土御門久脩を出仕停止にした。
これに憤慨した天皇は退位しようとするが、幕府からの使者である藤堂高虎が天皇を恫喝、与津子の追放・出家を強要した(およつ御寮人事件)。
元和6年(1620年)6月18日に和子が女御として入内すると、これに満足した秀忠は、今度は処罰した6名の赦免・復職を命じる大赦を天皇に強要した。
寛永2年(1625年)11月13日には皇子である高仁親王が誕生する。
寛永4年(1627年)に紫衣事件、徳川家光の乳母である福(春日局)が朝廷に参内するなど天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇は同年11月8日、幕府への通告を全くしないまま二女の興子内親王(明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。
一説には病気の天皇が治療のために灸を据えようとしたところ、「玉体に火傷の痕をつけるなどとんでもない」と廷臣が反対したために退位して治療を受けたと言われているが、天皇が灸治を受けた前例(高倉・後宇多両天皇)もあり、譲位のための口実であるとされている(かつての皇国史観のもと、辻善之助の研究に代表される「幕府の横暴に対する天皇・朝廷の抵抗」という通説への対論となる洞富雄の説[2])。
その一方で、中世後期以降に玉体への禁忌が拡大したとする見方も存在し、後花園天皇の鍼治療に際して「御針をは玉躰憚る」として反対する意見が存在したとする記録(『康富記』嘉吉2年10月17日条)が存在し、その後鍼治療が行われなくなったとする指摘も存在する[3]。
また、霊元天皇が次帝を選ぶ際に、後水尾法皇の意思に反して一宮(のちの済深法親王)を退け、寵愛する朝仁親王(のちの東山天皇)を強引に立てたが、このときに表向きの理由とされたのが「一宮が灸治を受けたことがある」であった[4]。
以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行う。
初は院政を認めなかった幕府も寛永11年(1634年)の将軍徳川家光の上洛をきっかけに認めることになる[5]。
その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。
また、東福門院(和子)に対する配慮から後光明・後西・霊元の3天皇の生母(園光子・櫛笥隆子・園国子)に対する女院号贈呈が死の間際(園光子の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親(園基任・櫛笥隆致・園基音)への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。
その一方で、本来は禁中外の存在である「院政の否定」を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には徳川家光の朝廷との協調姿勢[6]とともに東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。
晩年になり霊元天皇が成長し、天皇の若年ゆえの浅慮や不行跡が問題視されるようになると、法皇が天皇や近臣達を抑制して幕府がそれを支援する動きもみられるようになる。
法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の議奏)に対して延宝7年(1679年)に幕府からの役料支給が実施されたのはその代表的な例である。
延宝8年(1680年)に85歳の長寿で崩御し、泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。
なお京都市上京区の相国寺境内には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた、後水尾天皇髪歯塚が現存する。
昭和60年(1985年)7月12日までは歴代最長寿の天皇でもあった。
記録を抜いた昭和天皇は、「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」とコメントしている。
日光東照宮には陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる額が掲げられており、後に板垣退助が強硬に日光東照宮の焼き討ちを要求する薩摩藩を説得する理由の1つとして挙げたとされる。

諡号・追号・異名[編集]
遺諡により後水尾と追号された。水尾とは清和天皇の異称である。後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして退位に追い込まれた陽成天皇の「陽成」の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇の異称「水尾」の加後号を名乗るという意志を持っていたことになる。
このような父子逆転の加後号は他に例がない。
徳川光圀は随筆『西山随筆』で、兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であり、この諡号を自ら選んだ理由であろうと 推測している[7]。遺諡は、鎌倉時代の後嵯峨天皇から南北朝・室町時代の後小松天皇にかけて多くあったが、その後7代にわたって絶えており、後水尾天皇の遺諡は後小松天皇以来約2世紀ぶりである。
このことからも後水尾天皇の強い意志が伺われる。また、清和源氏を称する徳川氏の上に立つという意志も見て取れる。

逸話[編集]
勅撰和歌集である「類題和歌集」の編纂を臣下に命じた。
学問を好み、『伊勢物語御抄』の著作がある。
女性関係は派手であった。禁中法度を無視し宮中に遊女を招きいれたり、遊郭にまでおしのびで出かけた。
退位後にも中宮以外の女性に30余人の子を産ませ56歳で出家した後も治らず、58歳で後の霊元天皇を産ませた。


徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日(1607年11月23日) - 延宝6年6月15日(1678年8月2日))は、
江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。

略歴[編集]
慶長12年(1607年)10月4日、徳川家康より将軍職を譲られた徳川秀忠と正室・江(崇源院)夫妻の間に7番目の子(5女)として江戸城大奥で誕生する。
最初の名は松姫(まつひめ)(和姫(かずひめ)とする説もある)。慶長17年(1612年)には後水尾天皇が即位するが、大御所・家康は和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。
入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。
元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、後水尾天皇の寵愛する女官四辻与津子(お与津御寮人)が皇子賀茂宮を出産していたことが判明すると入内は問題視される。元和5年には秀忠自身が上洛して参内し、与津子の兄弟である四辻季継・高倉嗣良を含む近臣らを配流し、与津子と所生の皇女梅宮らを宮中より追放することなどで合意した(およつ御寮人事件)[1]。
元和6年(1620年)入内に先立ち、6月2日に従三位に除せられ、同月18日に後水尾天皇の女御として入内する。入内にあたっては主上に袷百と銀千枚、中和門院に袷五十と銀五百枚、近衛信尋と一条昭良(どちらも後水尾天皇の同母弟で、近衛家・一条家に養子に入っている)に、それぞれ帷子及び単物二十と銀百枚ずつの幕府からの献上があったが、土御門泰重はその量が少ないと日記に記している[2]。
入内の様子は二条城から盛大な行列を伴い、『東福門院入内図屏風』に描かれている。
元和9年(1623年)には懐妊し、同年6月には秀忠と嫡男家光が将軍宣下のため上洛し、禁裏御領1万石を寄進される。同年11月19日には皇女 女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。
寛永元年(1624年)11月28日には冊立され中宮となり、同2年(1625年)9月には女二宮が誕生する。寛永3年(1626年)には秀忠・家光が上洛し後水尾天皇の二条城行幸が行われ、和子は同年11月13日には高仁親王を出産した。
しかし寛永4年(1627年)、高仁親王は夭折。この年生まれた男二宮も誕生直後に没した[3]。寛永6年(1629年)には朝幕間で紫衣事件が発生し、同年10月8日に後水尾天皇は突然譲位し、女一宮に内親王宣下が下され、践祚する。同年11月9日には院号宣下があり、東福門院の号を賜る[4]。
翌寛永7年(1630年)9月12日、女一宮は即位し、明正天皇となる。
寛永11年(1634年)には新将軍となった兄の家光が上洛し、姪にあたる明正天皇に拝謁し東福門院の御所も訪れている。延宝6年(1678年)6月15日、崩御、72歳。京都泉涌寺月輪陵域に葬られた。


修学院離宮

隣雲亭から浴竜池を臨む

修学院離宮付近の空中写真。(1982年撮影)画像中央上部に見える池が浴龍池。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

浴竜池の西浜
修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)は京都市左京区修学院の比叡山麓にある皇室関連施設。17世紀中頃(1653年(承応2年) - 1655年(承応4年))に後水尾上皇の指示で造営された離宮(皇居以外に設けられた天皇や上皇の別邸)である。谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園とその関連建物からなる。桂離宮・仙洞御所とならび、王朝文化の美意識の到達点を示すものとなっている。宮内庁京都事務所が管理している。
目次 [非表示]
1 概要
2 庭園と建物
2.1 下御茶屋
2.2 中御茶屋
2.3 上御茶屋
3 ギャラリー
4 アクセス
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
概要[編集]
修学院離宮は上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)と呼び習わす3か所の庭園からなり、面積は54万平方メートルに及ぶ。
各御茶屋の間には田畑が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる。上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、1655年(明暦元年)から1659年(万治2年)にかけて江戸幕府が造営した離宮である。後水尾上皇は女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を自ら訪れて造営の指図をしたというが、真偽のほどは定かでない。
上・下御茶屋は1884年(明治17年)、宮内省の所管となった。一方、中御茶屋は、同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年(明治18年)に修学院離宮に編入された。修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられて、宮内庁が管理している。見学には、事前に宮内庁京都事務所に、郵送・直接申請あるいはインターネットを通じて申し込んで許可を得る必要がある。また18歳未満の者の見学はできない。
なお、修学院離宮の「修学院」は離宮の名称でなく、離宮の所在する地名の旧称、すなわち(山城国愛宕郡)修学院村(現在の京都市左京区修学院などを含む)を意味し、その名はかつてこの近隣に所在していた寺院に由来するものである。
庭園と建物[編集]
敷地は上・中・下の御茶屋のほか、周囲の山林や水田も含めて54万5千平方メートルに及ぶ。上・中・下の御茶屋の間に広がる、実際に耕作されている水田をも風景に取り入れている。この水田は昭和39年(1964年)に宮内庁が買い上げ、地元農家と契約を結んで耕作させている。上・中・下の御茶屋の間を結ぶ松並木の道は、もとはあぜ道であったが、明治18年(1885年)の中御茶屋併合後、明治天皇の行幸に備えて拡幅整備し、松を植栽したものである。[1]
下御茶屋[編集]
池泉観賞式庭園のなかに、後水尾院の御座所となった寿月観が建つ。門などの付属建物を除くと、下御茶屋に残る建物は寿月観のみである(寿月観も当初の建物ではない)。かつてはこのほかに茶屋の「蔵六庵」と2階建て楼建築の「彎曲閣」があったが失われた。丸太の門柱に竹を並べた簡素な表総門を入り、左(北)方向に進むと右手石段上に御幸門がある。御幸門を入り右折すると中門があり、池を掘った土を盛り上げた高みに寿月観がある。庭園裏手には東裏門があり、これを出ると、道は右の中御茶屋方面と左の上御茶屋方面に分かれる。[2][3]
寿月観 - 後水尾院行幸時の御座所となった建物。当初の建物は岩倉殿(顕子内親王)の山荘から移築したものであったが、享保年間(18世紀前半)に失われ、文政7年(1824年)に再建された。文政の再建は、徳川家斉が光格上皇のために離宮の改修を行った際のものである。東側に「一の間」、その西に「二の間」、その南に「三の間」が鉤の手に連なり、三の間の西には5畳の茶室がある。二の間の北には4畳半、その北には10畳半の「玄関の間」が突出し、建物の北西端に式台玄関(御輿寄)がある。屋根は?葺で、一の間側が寄棟造、三の間側の南妻は入母屋造とする。一の間の東・南面から二の間・三の間の東面にかけて板縁を設ける。一の間は15畳。うち北西隅の3畳分を框で一段高くした「上段」とする。上段の西側に床(とこ)を設け、これと矩折の北側に脇床(琵琶床)、棚を設ける。床柱は杉の面皮柱、長押は杉丸太である。棚の上の天袋小襖には鶴、下の地袋小襖には岩に蘭を描く。これらは原在中の筆である。西側の二の間境には岸駒筆の「虎渓三笑」の襖絵がある。修学院離宮にある唯一の襖絵だが、後水尾院没後の作である。二の間は12畳で、西側南寄りの杉戸に夕顔の絵がある。その南の三の間は6畳で、従者の控えの間である。茶室は5畳で北側に床を設け、裏に物入と水屋がある。一の間南側軒下の「寿月観」の額は後水尾院筆。三の間の南妻には失われた建物である「蔵六庵」の額が掛かる。寿月観前庭の飛び石や、庭に立つ袖石灯篭も有名である。[4][5][6]
中御茶屋[編集]

中御茶屋・客殿の内部(縁座敷)奥の杉戸絵は祇園祭の岩戸山と放下鉾を描いたもの
後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身である。この地にはそれ以前、上皇の第1皇女である梅宮が出家して円照寺という尼寺を構えていたが、上皇の離宮建設の意思を聞いて、奈良八島の地へ移っていた。朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められた。1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。なお、林丘寺は門跡尼寺として今も存続している。楽只軒は前述の朱宮御所の一部で、1668年(寛文8年)頃の造営である。書院造の客殿は、1677年(延宝5年)造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。客殿一ノ間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。他に表門、中門、瓦葺の総門(もと林丘寺の総門であった)がある。[7][8]
楽只軒 - 瓦葺、?庇の建物。軒名は『詩経』の「楽只君子万寿無期」によるもので後水尾院の命名である。ほぼ正方形平面で、南面と東面に板縁を設ける。主たる部屋は東側の「一の間」とその西、建物中心部に位置する二の間である。一の間は6畳で北側に床(とこ)を設け、床壁貼付と、その西の壁貼付の絵は狩野探信の「吉野山桜図」である。二の間は8畳で、西面南寄りの壁貼付絵は作者未詳の「竜田川紅葉図」である。一の間・二の間境の長押上の「楽只軒」の額は後水尾院の筆になる。一の間の南には3畳の入側、二の間の南には4畳の入側がある。このほか、建物の西側に5畳間と2畳間、北側に6畳間、5畳間、納戸(2畳)がある。[9][10][11]
客殿 - 楽只軒の南東に接して建つ。東福門院の女院御所の対面所を移築したものである。楽只軒より客殿の方が若干高い地盤上に建っており、楽只軒南東の板縁と客殿入側の間は矩折に位置する2つの階段で結ばれている。階段は楽只軒側が4段、客殿側が3段で、段差が一定の高さでない、特異な階段である。建物は入母屋造、?葺とし、南面と西面に1間幅の入側(畳縁)があり、その周囲に板縁をめぐらす。西側の南が「一の間」、その東が「二の間」、その北が「三の間」で、一の間の北には仏間(御内仏の間)がある。一の間は12畳で、北側西寄りに床(とこ)、その東に幅1間半の棚を設ける。棚は5枚の欅板を高さを違えて設置し、霞のたなびく様に似ることから「霞棚」と称され、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに天下三名棚の一とされる。棚の下方の地袋には友禅染の張り場の風景を描く。その上には細長い三角棚がある。地袋小襖の引手は羽子板形、三角棚の小襖の引手はぶりぶり(玩具の一種)形である。床壁の腰貼りは群青と金箔の菱形を交互に並べた幾何学文で、襖の腰貼りも同様である。床、棚、襖を通して金泥で雲を描き、その上に和歌・漢詩と水墨画の色紙を貼り交ぜている。和歌は親王公家、漢詩は五山僧の筆になるものである。室内の長押には七宝の釘隠14個がある。二の間は10畳で、狩野永敬の四季絵がある。襖の引手は尾長鳥丸紋のデザインとし、長押には七宝の竹葉形釘隠8個がある。南側の畳縁の杉戸には一の間側に鯉と鮒、二の間側に大鯉を描く。これらの魚の絵には画面全体を覆うように漁網の網目が描き込まれ、網目がところどころほつれている様子も描写されている。伝承では、この魚たちが夜な夜な絵から抜け出して庭の池で泳ぐため、漁網を描き加えたという。他に10畳の「三の間」と6畳の「仏間」があるが、後者は女院御所を当地へ移築した後に付け加えたものである。仏壇上方の欄間は波の文様を下向きに表したもので、「逆波の欄間」という。仏間北側には鉤の手に板縁(榑縁)を設けるが、その手摺の意匠は斜めの直線数本を組み合わせた独特のもので、「網干の手摺」と称される。西面入側の北端、楽只軒に通じる階段との境の杉戸には祇園祭放下鉾と岩戸山を描き、これらの裏面には2枚続きで祇園祭の船鉾を描く。[12][13][14]
上御茶屋[編集]

浴竜池
巨大な人工池の浴龍池(よくりゅうち)と大刈込を中心とした壮大な庭園である。?葺の御成門を入ると、右は山道、左は池畔の道となる。一般参観者の順路は前者をとる。浴竜池は谷川を堰き止めて造った人工池で、堤防は高さ13メートル、延長200メートルに及び4段の石垣で補強されているが、武骨な石垣が見えないよう、3段の生垣と大刈込で覆っている。大刈込とは、異なる種類の樹木を混ぜ植えたものを刈込んで、全体の形を整えたものである。御幸門から石段を上った離宮内の最高所に隣雲亭が建つ。ここまで登ると、急に展望が開け、眼下に浴龍池、遠方に借景の山々を望む壮大な風景が広がる。[15]
浴竜池には中央の中島(窮邃亭)のほか、2つの島があり、北側の島は三保島、南側の島は万松塢(ばんしょうう)という。中島には東岸から楓橋、北岸から土橋が架かる。楓橋は欄干付の木橋。土橋は上に土を盛った木橋である。中島と万松塢の間には後述の千歳橋が架かる。[16]
上御茶屋の主要建物は隣雲亭と窮邃亭の2棟である。他に池の北岸に止々斎という建物があったが、宝永6年(1709年)に仙洞御所に移築され、天明の大火(1788年)で仙洞御所が焼失した際に失われてしまった。[17]
隣雲亭 - 海抜150メートル、浴竜池との標高差10メートルのところに建つ。当初の建物は延宝5年(1677年)に焼失し、現存する建物は文政7年(1824年)の再建である。なお、霊元法皇が享保6年(1721年)修学院離宮を訪問した際に隣雲亭を訪れたという記録があり、延宝の焼失後、いったん再建されたものが荒廃したため、文政年間に建て直したとみられる[18]。池を眺望するための簡素な建物で、床(とこ)、棚などの座敷飾りはなく、装飾は欄間の花菱文と釘隠にみられる程度である。建具は間仕切り、外回りとも明障子とする。主室の「一の間」は6畳、その南に「二の間」(3畳)があり、一の間の北側には「洗詩台」と称する2坪(4畳大)の板間がある。洗詩台は南を除く三方を吹き放しとした開放的な空間である。洗詩台、一の間、二の間の西側及び南側には板縁をめぐらし、その周囲は深い軒の下の土庇となる。土庇部分の三和土(たたき)には赤と黒の小石が埋め込まれ「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれている。二の間の東方には中廊下を隔てて東から西へ8畳間、6畳間、6畳間が連なるが、これらは池を眺望できない位置にあり、従者の控えの間である。[19][20][21]
窮邃亭 - 後水尾院によって造営された上の茶屋・下の茶屋の建物のほとんどが滅失または再建されているなかで、本建物は唯一、創建当時のものとされている。ただし、幕末頃には相当に荒廃していたようで、大幅な修理が加わっている。大きい中島の上に建ち、宝形造、?葺、屋根頂部に瓦製の露盤を置き、その上に切子頭の宝珠を乗せる。南面と東面は縁および土間庇をめぐらす。内部は18畳の1室とし、間仕切りはない。ただし、北側の東隅に板間が突出し、水屋となっている。水屋には流し、天袋、地袋を設ける。床(とこ)、棚などの座敷飾りはないが、池に面する北面から西面にかけて鉤の手に6畳分を框一段分高くなった「上段」とする。上段の西側窓際には幅1尺、長さ2間の肘掛板があり、これは欅の一枚板である。この建物は、壁でふさがれているのは前述の水屋部分のみで、他は4面とも明障子の戸または窓とする。南側上がり口の軒下の「窮邃」の額は後水尾院の筆である。[22][23][24]
千歳橋 - 中島と万松塢の間に架かる。特色ある外観をもった屋形橋であるが、当初から離宮にあったものではない。切石積みの橋台に一枚石の橋板を渡し、東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架けたもので、宝形造屋根の頂部には金銅の鳳凰が立つ。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したものである。[25][26]

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