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雑感日記

母、退院 

2010年10月19日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★『明治42年6月28日生まれ、101歳です』とはちゃんと言える。今年の6月28日の誕生日で、101歳を迎えた。その誕生日の日にこんなブログを書いている。4か月前の話だが』『こんな風に書いている。『お蔭様で元気と言うべきか、自分のことは大体自分で出来る。今日は、妹たち4人が誕生日を祝ってくれると言うので、私の次の妹の明石に送っていって何日か、そちらで面倒を見てもらっている。幾つになっても、女性の話は独特で、女ばかりの話のほうが気が休まるはずである。』そのころはまだ元気だった。妹たちが何日か預かって面倒をみてくれたのである。その時にちょっとあたりが暗いと言うので、眼科に診てもらったら、『眼底出血』だという診断。その治療に西神の医療センターに通いだしてから、急に調子がおかしくなった。それでもそのころはまだ駐車場から300メートル余りを自分で歩いて通っていた。★ひと月のうち24日を養老院のショートステイでお世話になって、残りの1週間ほどを家で過ごす生活が、もう何年も続いていた。家でも食事も、トイレも風呂も、すべて自分のことは自分でする。面倒は見ていたが介護をするという感覚は皆無であった。それが、お盆休みの真ん中の8月14日に、突然膝が痛くて歩けないと言いだしたのである。医者は休みだし、歩けないし、困り果てて救急車をお願いして、病院まで運んで頂いたのである。検査の結果、体に炎症があるからと、そのまま入院となってしまったのである。今まで白内障の手術で入院したぐらいで、大きな病院のお世話になることもなく100年を生きてきた母だが、入院して病院生活をすることで、環境が変わったからか一挙に病人らしく弱ってしまったのである。ちょうど介護の級の変更を申請していたのだが、一番軽度の『介護1級』から、一番重い『介護5級』に認定されるまで弱ってしまった。一時は、妹たちが見舞に来てくれたが、全く解らずに話も出来ずに帰った時もあった。★このときは写真にはちゃんと写ってはいるが、認知症がひどくて何も解らなかった。写真でも撮っておかねばと思って撮った写真の中の1枚である。それからいろいろとあったが、10月に入って順調に戻ってきて、昨日退院と言うことになったのである。ただ、退院と言っても今度は家には戻れない。養老施設の方に直行なのである。病院まで迎えに行った。昨日はチャンとよく解ったが、家に戻らぬのが不服なのである。ただ、迎えに来てくれたとご機嫌で、何となく笑顔らしき表情も出て、よかったと思っている。今車椅子に坐っているが、自分で歩き自分の事は自分でする4か月前の生活に戻るのは無理かもしれない。★超長寿社会になって、長寿を祝うのが一般的だが、他人の方の長寿は祝えても、いざ自分の周りのことになると祝ってばかりもおれないのである。『介護と言う現実』に直面すると、如何に母が望んでも自宅での『老々介護』には限界があると思う。ただ、私の身近な人たち、父も伯父も祖母もみんな自宅で介護をした。私がしなかっただけで誰かがしたのである。然し『老々介護』でなかったことは間違いない。今は社会の仕組みが変わってしまったのである。90歳とは言わぬ、せめて95歳以上の超長寿者はすべて、専門の介護者が面倒をみる仕組みを造るべきである。親の介護だと言っても、95歳の親の子どもは70歳を超えていることが多いだろう。面倒をみるべきだとは思うが、現実の日々介護となるとお手上げなのである。母の面倒をみていた6月までと、『介護』をしなければならなくなった8月以降では、その環境が一変している。母は当然不満なのだが、退院先は自宅ではなくて『りんどうの里』だったのである。りんどうの里では、係の人が優しく出迎えてくれた。言葉づかい一つでも、なかなかこうはいかない。介護や養護のプロたちなのである。そういうシステムのお世話になれる、母は非常に幸わせだと思っている。 Twitterブログパーツ

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