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平成の虚無僧一路の日記

ギリヤーク尼崎 

2010年10月17日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



10/16 大須の「大道町人祭」に「ギリヤーク尼崎」が来ると
いうので、2時間も前から最前列に席をとって観た。

もう40年も前、渋谷のハチ公前で何度か彼の舞踏を見た。
70年安保で、世相は混乱していた時代。新宿駅も渋谷駅前の
交番も、学生によって焼き討ちされるという狂気の時代だった。

突然、路上に座って、服を脱ぎ化粧をし出す男に、道ゆく人は
?.?。やがて、津軽三味線の音に合わせて、狂おしく踊り
だすと、一人二人と足を止める。その中に私もいた。

まだ津軽三味線なんて、今ほど知られていなかった時代だ。
その面相とともに、赤褌をさらけ出しての舞踏は、狂人扱い
され、何度も警察にしょっぴかれた。後に彼が語ったところ
では「70回以上」だそうだ。

ギリヤーク尼崎は、当時から「最後の大道芸人」と呼ばれた。
その後、コンクリート路上での激しい踊りのため膝の半月版を
損傷したり、「病に倒れ入院した」という記事は目にしていた。

「もう再起不能」とも聞いていたが、その「ギリヤーク尼崎」が
40年ぶりに私の前に現れたのだ。40年前と変わらぬ姿で。
40年たっているのだから、もう80近いはずだ。それにしては
肌もツヤツヤだ。当時も、歯の抜けた老人を演じていたが、
今80歳で、ぜんぜん変わらない。踊りの内容も変わっていない。

演技の途中で、「今年80歳になります。43年続けてきました。
まだあと8年、88歳まで踊り続けて、50周年記念やりま〜す」
と宣言。

また、踊りの中で、母親の写真を胸に仰向けに倒れ、そして、
「お母さぁ〜ん、まだ踊りたいようォー」と絶叫する。私は
こういうのに弱い、涙があふれる。「大須大道町人祭」の
パンフレットにも「ハンカチ持参で」と書いてあった。

「最後の大道芸人」が40年、変わらぬ活動を続けてきたお蔭で、
今、大須の町では、毎週日曜日、全国から大道芸人が集まり、
にぎわっている。そして、そこに若い人が多く集まるのだ。
幼い子供連れの若い夫婦も多い。そのことはギリヤークも、ある
対談で語っていた。

さらに、対談では「芸人の一番大事な部分っていうのは、技術
じゃなくて、人の心に訴えるパワーだよね。人を感動させられ
ないと、投げ銭くれないですから。サラリーマンの人が言うん
ですよ。『なんか意味わからないけど、グっときました』って。
それでいいんですよ」

そうなのだ。彼の舞踏は「祈り」だ。昨日の「大道芸人」の中
でも、彼がオオトリ。夜7時からの演舞でも、200人ほどの
若い人が、彼の舞踏を、“なにかわからんけれど”、食い入る
ように見つめていた。それは、他の大道芸人に向ける目とは
違っていた。「投げ銭」も、5,000円札が入っていたり、一番
多かったはずだ。

私は、20代の学生の時、彼に会い、何か心引かれ、大道芸人の
刹那的な生き方に憧れ続け、そして今、虚無僧として生きている。
ギリヤークも、「おひねりで食べていけなければ芸人でない」と
宣言したものの、本当におひねりで食べていけるようになったのは
60歳からだそうだ。私も同じだ。彼の中に自分の将来を観る。
自分も80になっても、門付けで生きていかねばならない。
生きていけるだろうか。“心構えひとつ”だ。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

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