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徒然絵say集「光と風と野草ちゃん♪」

回顧展「三田尻御舟倉跡」(2006.5作) 

2014年08月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「三田尻御舟倉跡」
先ずは、現地案内板をそのまんまどうぞ:     関が原の戦い(1600年)後、周防・長門の二ヶ国に封じ込められた毛利輝元は、    参勤交代や海戦、平時の海運に備えた藩の水軍の本拠地である御舟倉を、    現在の下松市に設けた。    しかし、萩城との交通の便や地形などを考慮し、慶長16年(1611年)三田尻(防府)    に移した。    城下町萩と瀬戸内海の港三田尻を結ぶ「萩往還」の終点である三田尻御茶屋    (英雲荘)からおよそ500メートルの位置にこの御舟蔵跡がある。    江戸時代中ごろまでの参勤交代はここから船出していた。     御舟倉には、藩主の御座船や軍船が常置されただけでなく、船の建造や修理    ができる設備も整えていた。    また、周辺には水軍の将校や船頭・船大工など関係者の住宅地の町割りが計画    的になされ、三田尻は藩主出入りの表玄関にふさわしい軍港・商業港として発展し    ていた。     しかし、元禄元年(1688年)以降、御船倉周辺の開作(干拓)が次々に完成する    と、次第に陸地に囲まれ、一本の水路が海に通じる唯一のものとなった。     明治維新後、御舟倉は廃止となり、現在では大部分が埋め立てられ、    通堀(かよいぼり)とこれに通じる水路にその名残をとどめている。
スケッチの場所を定めたものの、淀む池からの異臭に参りました。管理が行き届かず、周辺住宅地から生活排水に近いものが流れこんでいるのでしょう。池の中に一羽の水鳥がいなかったら、多分立ち去っていたでしょうね。
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