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平成の虚無僧一路の日記

「虚無僧」が「非人」扱いされなかったのは 

2014年07月21日 外部ブログ記事
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江戸時代「虚無僧」は 歌舞伎にも登場し、錦絵にもなり、
広重の『東海道五十三次』の浮世絵にも描かれ、表向きは
世間を堂々と往来していた。だが、人々の心の中には、
蔑(さげす)みの心もあったに違いない。

虚無僧は、“布施”を強要したりするから、“乞食”より
タチが悪い。所かまわず、わけのわからない曲を尺八で
ブーブー吹くから、“河原者”と蔑まれた旅芸人よりも劣る。

「河原乞食」より劣るのに、虚無僧は彼らとは一線を画していた。

最近「どこの組のものだ」とヤーさんに脅されたが、そういう
時は、「京都東福寺内の明暗時」と答えると、みな納得して
引き下がる。

ただし「東福寺」では公式には認めていない。迷惑している。

江戸時代の昔から、虚無僧は「穢多・非人」を統括する
「弾左衛門」の管轄外だった。また「旅芸人」の組織からも
外れていた。それが不思議なのである。やはり、発生当初は
「元武士の牢人者のなれの果て」だったからか。プライドで
「穢多・非人・無宿人・旅芸人」に堕ちるのを、必死に
防いできた。

宗教者とみなされる同類に「方下僧」「ささら者」「鐘叩き」
「琵琶法師」。旅芸人なら「新内流し」や「ゴゼ」。津軽三味線の
「ぼっさま」がいるのだが、彼らとも一線を画してきた。

虚無僧は「普化という禅僧を祖とする普化宗」などと称して
「禅宗」の一派のように装い、それが「家康公のお墨付を
いただいている」などと大ボラを吹いて、幕府をさえ
煙にまいてきた。

「虚無僧」は、一歩間違えれば「詐欺師」であり「えせ坊」だが、
それが、堂々とまかり通ってきたことに、私は関心をもっている。

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