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平成の虚無僧一路の日記

安達太郎山を巡って、二本松と会津の境界争い 

2014年06月07日 外部ブログ記事
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江戸時代に、「安達太郎山(あだたらやま)」をめぐって、
東の二本松藩と、西の会津藩で国境紛争があった。

当時「安達太郎山(阿多々羅山)」は、二本松側では
「嶽(だけ)」といい、会津では「沼尻山」と呼んでいた。

二本松藩は、早くから「嶽」の硫黄と 温泉に目をつけ、
その開発に力を注いでいた。

当時「陽日(ゆい)温泉」と呼ばれた「嶽(現=岳)温泉」は
奥州一の湯治場として栄えていた。 加えて「鉄(くろがね)小屋」から
沼尻湯本までの温泉水源を発見。湯治客が落とす金や、
温泉の副産物として採れる「湯の華」が、藩の財政を
支えていた。 

ところが、江戸幕府に届けられていた藩境は、安達太郎山の
峰づたい、稜線であったから、会津藩としては、「沼尻側での
硫黄の採掘と温泉の利用は、越境している」と、幕府に訴えた。

寛永2年(1749)、二本松藩と会津藩から藩使が幕府の評定所に
出頭し、裁定が行われた。この時の幕府の裁定が「大岡裁判」
もどきの逸話となって伝えられている。

幕府の役人が、最初「二本松領“嶽”の一件について出でし
会津藩・片桐八左衛門」と呼んだところ、片桐八左衛門は
返事をしなかった。そこで役人は「会津領沼尻山の一件に
出でし、二本松藩○○某」と二本松藩吏の名を呼んだところ、
「はい」と返事をした。そこで、審理官はすかさず、「只今の
返事で、そこもとは、会津領と認めたわけでござるな」と、
会津藩の勝訴となった。

会津藩士は「郡(こおり)奉行・片桐八左衛門朝龍」。実は
当家の先祖である。牧原家は、男子が絶え、片桐八左衛門の
四男「只七直永」を婿養子に迎えて、家系を存続させた。

であるから、片桐八左衛門は血のつながる先祖である。
片桐家は百石だったが、この功により、百石加増され、
二百石となった。禄高が倍になるのは異例のことである。

気の毒なのは 二本松の藩吏「某」。「面目なし」と
腹を切ったという。

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