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尺八と横笛吹きの独り言

野球観戦やら史跡探訪やら・・・・よく行くねえ。 

2014年05月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●巨人と西武ライオンズの交流戦観戦初日5月20日(水)。 
西武球場・夕方6時試合開始・一塁側(巨人側)内野指定席C A215段1番と2番の2席確保。

巨人がセリーグだかパリーグだかわからない野球音痴の私・・・・シルバー人材センター(私は会員)から指定券が1枚届いたので、奥さんの分を事前に球場に出向き指定券に変えて席を確保した。西武球場まで車で40分ほどの近場に住んでいるが応援は1塁側の巨人応援だ。
興奮しましたね・・・・すごい人。およそ3〜4万人だろう。
応援がすごい・・・・外野席は立ちっぱなしで応援。巨人の阿部慎之助がヒットを打つと、みなさん立ち上がりオレンジのタオルをくるくるまわす。トランペット、太鼓、歓声・・・・
 結果は巨人の圧勝。巨人対西武 9対1の巨人圧勝。
行きの駐車場確保が大変。駐車場Aは満席、Bもだめ・・・・駐車場Cまで迂回。
帰りが問題。早く帰らないと数千の車で渋滞する。行きも帰りも大変。
 ここは6回で巨人圧勝の見切りをつけて、6回の表、巨人の攻撃を見届けてスワ退散。
良い判断でした・・・・スイスイと自宅に帰れました。
            
 
●ピッチャー杉内。背番号18番。
座席は1塁側、前から5段目。近い。控えの投手がピッチング練習している。
写真は背番号18番の杉内選手・・・・いい顔しとるね。息子と同じくらいの34歳。
若いねえ・・・・杉内のファンは多い。ファンのタオルには杉内と書いてある。
こんな近い距離で選手をみられるなんて・・・・ラッキー。
キャッチャの阿倍も確認。原監督はこの席の下なので見えないのでした。
投手の投げる速度は速い、受ける捕手のキャッチャーミットの音・・・・
なんともいえない痛い音・・・・早い球だ。
 ビールの売り子の女の子・・・・背中にビールタンクを負ぶって懸命。ビールカップ一杯で700円は高いでしょ。
お茶娘姿のお茶売り娘の中に、以前勤務していた高校の女子生徒を発見。
ありゃ・・・・「おおい・・・・こら何やってんだ。俺だよ・・・・おれにお茶もってこーい。」
(なんて言いませんでしたよ。黙ってみてました)
卒業できなくて、中退したんではなかったかなあ??
こいうところでバイトしてんだね・・・・

 
●「春の史跡探訪、日帰りバスツアー参加」
互助組合主催のツアーに一人参加しました。
お茶の水・首都高・東北道・佐野・館林・足利・・・・北関東自動車道の旅。
 ●参加は退職した教職員、事務、都職員の団体。参加35名ほど、内男性参加が10名ほど。退職された小学校の女先生が多かったように思われます。
お茶の水のとある病院前集合。
7時30分受付、早い者順で席の確保ができる。ガイドつき、バス内の講師は高校日本史の退職教員。
女性パワーはすごい。こういう史跡ツアーはどこへ行っても女性が多いのだという。
「男性は80歳、女性は86歳が平均寿命・・・・なんでも女性は強いのよ」
女性の年金で一番多いのが女性教職員だそうだ。一般業種は女性は低い。
昼食時に座っての昼食。会話がはずみました・・・・ブツブツ・・・・「まったくわかってないよね。座ってのしょくじなんて・・・・年寄りのことを全然わかってないんじゃない!」
「腰や足が痛くて今は皆、椅子よ・・・・なにやってんのよ・・・・」「父ちゃんが先に逝くとみんな元気になるのよ」「ゴルフが趣味」「昔は山岳部の顧問」「ヨッコラショット」
こわーい。平均70歳代の昔・女先生たちだ。
私は66歳・・・・「若いわねえ」と一括された。「は・・・・はーい。よろしく。」
66歳って若いって感じましたけど・・・・
バスでは元勤務校の近隣高校での元事務長(男性)さん(72歳)。数名昔の仲間を知っておられ・・・・急に仲良くなりました。「今度飲みましょう!」「いいとも」


●雨の中、足利学校見学。
足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。隆盛期の天文年間(1532年〜1554年)には全国から学徒3000人を集め、儒学や医学、兵学などの授業が行われたという。その様子はフランシスコ・ザビエルによって海外に紹介された。...

●足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。
 足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/より抜粋

●足利学校の創設の理由・・・・国学としてここに創設されたのでは?
国学は官人育成のために各国に設置された地方教育機関。大宰府に設置された府学(ふがく)もほぼ同一のものである。大宝律令(701年)によって設置が定められ、各国の国府に1校の併設が義務付けられた。足利学校の興(おこ)りを、下野国(しもつけのくに)の国学だという節もあるが確かではない。


 
●今も論語の素読をやっていました。
●論語の素読
2010年度からここの足利市立の小中学生は、この「足利学校」まで出向いて『論語』の素読の授業を受けることになっている。このの小中学生は皆論語を素読するそうだ。
●足利市民はこの足利学校を「がっこうさま」、鑁阿寺を「だいにちさま」と、それぞれ敬称で呼び親しんでおり、歴史文化の町である事を多くの市民が誇りとされている。


 
●鑁阿寺(ばんなじ)見学。難しい字で、「ばんなじ」とは一回では読めない。
鑁阿寺は「だいにちさま」と呼ばれている。
●鑁阿寺(ばんなじ)
栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山である。
「足利氏宅跡(鑁阿寺)」(あしかがしたくあと(ばんなじ))として国の史跡に指定されている。1196年(建久7年) 足利義兼(戒名:鑁阿)が理真を招聘し、自宅である居館に大日如来を奉納した持仏堂、堀内御堂を建立。寺号は詳しくは「金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺(こんごうさん におういん ほっけぼう ばんなじ)」と称する。足利氏の氏寺。
本尊は大日如来。

●田中正造、明治天皇に足尾鉱毒について直訴(じきそ)

田中正造生誕の地見学。
●足尾銅山鉱毒事件と田中正造
19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山の公害事件。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。
銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。日本初の公害。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


●写真は直訴状の現代訳。田中正造生誕の地の資料館で撮影。
●田中正造は、天保12(1841)年11月3日に栃木県佐野市小中町(こなかちょう)(旧旗川村(はたがわむら))で、旗本六角家の名主である富蔵(とみぞう)、サキ夫妻の長男として生まれた。名主になった正造は、不正をはたらく領主と対立するなどの苦難を乗り越え、明治10年代には自由民権運動家として、また栃木県議会の指導者となっていった。
 明治23年の第1回総選挙で衆議院議員に当選し、そのころ農作物や魚に大きな被害を与えていた足尾銅山(あしおどうざん)の鉱毒問題を繰り返し国会でとりあげ、渡良瀬川沿いの人々を救うため努力した。しかし国の政策に改善が見られず、ついに明治34(1901)年12月10日、天皇に直訴(じきそ)した
http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/index4.htmlより
●実際には直訴状は明治天皇には届かなかった。直訴は即死刑であったが、当時の鉱毒を追求する世論を政府は考え、「田中正造は気が触れた」とのことで片づけられたようだ。

 
●「なければないで苦しみ・・・・あればあるで苦しむ」(佐野厄よけ大師の掲示板から)
どっちも苦しむのだ。・・・・ではどうするの?なにごともその願望をもたなければいい。
お金が無ければ無いで苦しみ、お金があればあるで苦しむ。ならばお金に執着しなければいいのかしら・・・・でもお金があればあるでの苦しみをチョットだけ味わいたいが・・だ・・でも・・・・金にまつわるところの親族の醜い争いはいやーだね。
ほどほどの貧乏質素がええのだ。

 
●初詣で有名な佐野厄よけ大師に参拝。栃木県佐野市。
●佐野厄除け大師・惣宗寺(そうしゅうじ)
栃木県佐野市にある天台宗の寺院である。山号は「春日岡山」、寺号は詳しくは「春日岡山 転法輪院 惣宗官寺(かすがおかやま てんぼうりんいん そうしゅうかんじ)」と称する。一般には佐野厄除け大師[1]の通称で知られる。年末年始には関東地方を中心にテレビCMが多く放送されるため広く知られている。
1913年(大正2年)10月12日 - 足尾鉱毒事件の解決に尽力した田中正造の本葬を行う[4] 正造は一九一三(大正二)年九月四日、胃がんのため佐野市内で死去。群馬県館林市の雲龍寺で密葬が営まれた後、十月十二日、佐野市金井上町(かないかみちょう)の惣宗寺(そうしゅうじ)(佐野厄よけ大師)で本葬が営まれた。渡良瀬川沿岸の鉱毒被害民らが参列、当時の新聞報道によると、惣宗寺を出発した葬列と、見送りの人たちで沿道はあふれ、集まった人々は数万人となった。先頭が寺に戻っても出発する人がいたほどだったという。

●厄除け大師とは
大師は俗姓を木津氏といって12歳の時、比叡山に登り出家し、法名を良源(りょうげん)と称した。966(康保三)年十八代天台座主となり叡山中興の祖とあがめられた。995(永観三)年世寿74歳で遷化(せんげ)され、慈恵大師と申し上げる。
大師は生前より密教の行法を深く修め、多くの神秘奇跡の多かったところから、俗間の信仰をあつめている。
当山安置の大師像は大師の42歳のとき、比叡山解脱谷(げだつだに)においてこの世の人々の厄難苦悩をあわれみ、能化世間苦(のうくせけんく)の秘法を感得したまい、大師は如意輪観世音(にょいりんかんぜおん)のご化身といわれている。
なお当山には、上野寛永寺門跡一品(いっぽん)親王直筆による大師称名の御真筆を拝領している。
1.佐野厄除け大師の厄除け大師とは、第18世天台座主を務めた良源のことである。比叡山延暦寺中興の祖とされる良源は没後神格化され、元三大師として日本各地の寺院に祀られ、信仰を集めている。
2. 弘法大師を祀った真言宗の関東厄除け三大師(西新井大師・川崎大師・ 観福寺大師堂)とは全く別な物である。

 
●佐野市郷土博物館見学は中止。この日天皇陛下がご見学されるために見学はあいにくできませんでした。今日の朝刊に載っていました。
田中正造が明治天皇に示した直訴状が113年ぶりに明治天皇のひ孫(現在の平成天皇・明仁様)に届きました。天皇に届くのに100年以上もかかるとは・・・・
田中正造さんも浮かばれたに違いない。

 
●6時30分ごろ東京駅解散。まだ明るい
大部疲れて、練馬のいつものお店で一杯ひっかけて帰りました。
疲れましたね。お世話になりました。

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