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平成の虚無僧一路の日記

家康の義妹「多劫姫」とは 

2014年04月07日 外部ブログ記事
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家康の母「伝通院於大の方」です。東京文京区小石川に
「伝通院」という寺があります。家康が 生母「於大の方」の
菩提を弔うために建てた寺です。

「於大の方」は、三河刈屋城主水野忠政の娘で、岡崎城主
松平広忠と結婚し、竹千代(後の徳川家康)を産みます。

しかし、父水野忠政の後、刈屋城主となった兄信元が、
織田方に付いたので、今川の保護下にあった松平広忠と
離縁させられ、阿久比城主久松俊勝に再嫁します。

家康は終生、母「於大」のことを忘れず、実家の水野家、
再嫁先の久松家は、親類縁者として重用しました。

さて、その「於大」と「久松俊勝」との間に生まれたのが
「多劫(たけ)姫」です。ですから、家康と多劫姫は
異父同母の義兄妹となります。

この多劫姫(1553−1618年)も波乱万丈の生涯を送ります。
最初に嫁したのは「桜井松平家の忠正」。長男「家広」を
生んでいます。ところが、「忠正」が若死にすると、弟の
「松平忠吉」の妻となり、信吉と忠頼を生みます。
その「忠吉」も天正10年(1582年)に死去。

その2年後の天正12年「保科正直」に再々嫁し、保科正貞、
北条氏重、大涼院(黒田長政継室)、清元院(安部信盛室)、
貞松院(小出吉英室)、高運院(加藤明成室)の二男四女を
儲け、元和年(1618年)死去しました。

じゃ〜ん。そうです、今NHK大河ドラマでやっている
「黒田官兵衛長政」の妻は、この多劫姫と保科正直の娘です。

それより、多劫姫と先の夫の「桜井松平家の忠正」との
間に生まれたのが「松平忠頼」と知って、びっくり。

私の祖先「平石彦右衛門」は、この「松平忠頼」の家臣でした。

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