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平成の虚無僧一路の日記

新宮の「全龍寺」は先祖の墓所だった 

2014年04月06日 外部ブログ記事
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虚無僧尺八家のよりどころとなる「明暗寺」は現在、
京都・東福寺の塔頭「善慧院(ぜんねいん)」にあります。
「本曲吹禅大会」は、秋は京都明暗寺で、春は全国各地の
虚無僧ゆかりの寺で行っています。

新宮の全龍寺は、幕末最後の虚無僧「尾崎真龍」の菩提寺
とのことで、ここが選ばれました。私は高嶋さんを誘って、
御坊から由良の興国寺、田辺、勝浦と、虚無僧の旅をしながら
新宮に入りました。

新宮も、私の先祖の縁(ゆかり)の地です。何か手がかりを
求めて行ったのですが、ドンピシャ。「全龍寺」の御住職から
話を聞いて 震えました。なんと この寺は 新宮の初代城主
「水野重仲」の菩提寺で、「全龍」は[水野重仲公」の法名
とのこと。

「水野重仲」は、徳川家康の生母「於大の方」の血縁で、
家康公の信認厚く、浜松の城主でしたが、家康の十男
「頼宣」が「紀州藩主」に任ぜられた時、「御付家老」
として紀州に来、「新宮」城主となります。

尾張徳川の「御付家老」成瀬家が「犬山城主」となった
のと同じです。


「牧原家系図」によれば、
・先祖は、三河松平の庄「牧ノ原」の住人で「平石彦右衛門」と云った。
・平石彦右衛門の三男「平石勘右衛門」の時、「桜井松平」の
 「松平忠頼」に仕える。「松平忠頼」は、美濃金山、武蔵松山の
 城主を経て、浜松の城主となる。

・「平石勘右衛門は 500石 だったが、1609年、城主「忠頼」が
旗本同士の喧嘩に巻き込まれて殺され、改易(断絶・取り潰し)と
なった。そして「勘右衛門」は「忠頼」の後「浜松城主」と
 なった「水野重仲」に召抱えられた。

・1619年、水野重仲は、紀州徳川頼宣の御付家老となり、新宮に
 移封されるに伴い、「平石勘右衛門」も新宮に移る。

・「勘右衛門」は、新宮に移った時に「牧の原」の出身なので
 「牧原」姓に改めた。

・妻は紀州藩士300石「井出三左衛門」の娘。1627年に次男
 「牧原市郎兵衛」を生む。

(つづく)

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