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七変化黒田官兵衛 

2014年01月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



黒田孝高(黒田如水/黒田官兵衛)

何故ドラマ化しなかったのか、不思議なぐらい『学ぶ点多い』『波乱万丈』の人物です
『先を視るセンス、人への説得力、信念(キリスト教入信)持った』人物と想像できます


黒田官兵衛(引用)

黒田二十四騎(官兵衛と長政家臣団ー精鋭部隊(引用)



福岡藩主黒田家墓所(引用)





黒田節(母里太兵衛)像 光雲神社(引用)

黒田節の由来
長政公に命じられて、福島正則の屋敷に行って宴会に参加し
正則は、この大杯で酒を飲んだなら褒美は思いのままと言ったところ
太兵衛は3杯も飲んで、手柄の槍を手に入れました

播州時代
1546年黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれる
1567年、孝高は家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪を正室に迎え姫路城代となりました
孝高は、主君へ織田氏への臣従を進言し岐阜城で信長に謁見しました
孝高は居城であった姫路城を秀吉に提供し、その参謀として活躍するようになりました

織田家臣時代
織田家の家臣、荒木村重が謀反を起こした時、孝高は村重の説得で乗込みましたが幽閉されました
幽閉解除後、織田家臣の秀吉の与力となりました
秀吉の鳥取城攻撃で『兵糧攻め作戦』を秀吉に献策したのは孝高です
秀吉の高松城攻略で『水攻め作戦(船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈める)』を孝高は、献策しました

豊臣家臣時代
高松城攻めの最中の本能寺の変で、孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つ進言しました
大坂城の黒田長政らは、岸和田の戦いで根来盛重らの兵を破りました
四国攻めには、宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり諸城を陥落、孝高はキリスト教に入信した
豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い戦勝に貢献しました

豊前国主
黒田親子は九州を平定し、孝高は、家督を嫡男長政に譲り、孝高は秀吉の側近として仕えました
小田原の陣では、北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得し、無血開城させる功績を立てた
朝鮮出兵では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加しましたが、采配を執れず帰国しました

関ヶ原の戦い
長政は家康の養女と再婚し、家康と共に出陣し関ヶ原の戦いが起こりました
長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げました
如水は、西軍に属していた臼杵城・安岐城・日隈城等を落城させました

晩年
関ヶ原の合戦の後、長政が先に勲功として家康から筑前国名島(福岡)52万石への加増移封となった。
如水は加増が提示されるが辞退し隠居生活を送り、晩年は再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えた
京都伏見藩邸にて59歳で死去

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