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偉大な権力も一つの石碑 

2014年01月07日 外部ブログ記事
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応仁の乱の跡地散策

『 無常感』平家物語

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す
奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し
猛き者も終には亡ぬ、偏に風の前の塵に同じ


山名・細川の勢力図(引用)





上御霊神社(応仁の乱発祥の地)





百々橋戦場

細川勝元住宅跡

山名宗全住宅跡

応仁の乱
1467年〜77年の10年間戦争で、室町幕府の衰退、戦国時代へ
8代将軍足利義政の継嗣争い、細川勝元と山名宗全の代理戦争です
京都は灰燼と化し荒廃しました

背景
室町幕府の政治は、守護大名の合議制で、将軍の権力は脆弱でした
室町幕府では、家督相続の方式が、なかった事も要因です

義政の怠惰
義政は、8歳で将軍職を継承しましたが、将軍職より茶・作庭・猿楽に没頭しました
義政は29歳で、将軍職を実弟義尋に譲って隠居を決断しました 

勝元と宗全の対立(応仁の乱勃発地)
義政に実子義尚が誕生すると、実子に将軍職を譲るよう、母親が宗全に接近しました
義視の後見人勝元と義尚を押す宗全の対立は激化しました
将軍家の家督争いは、全国の守護大名を勝元派と宗全派に2分しました

御霊合戦
宗全の支援をうけた義就は、大軍を率いて上洛し千本地蔵院に陣取りました
義就側は、釈迦堂から出兵して政長を攻撃しました(御霊合戦)
宗全が細川派を排斥しようとしたクーデター戦争でした

勝元を幕府中枢から排除
東軍は、細川氏一族が近隣地域の守護を配置していたため優位でした
西軍は、山名氏中心に、反細川氏の同盟の地方の勢力です

戦闘の本格化
細川勝久邸に西軍が攻めかかり、細川軍と激戦を展開しました
合戦で起きた火災で、北は船岡山、南は二条通りまで延焼しました

終息
主戦派の義就が下国し、諸大名らが撤収し西軍は事実上解体しました
京都での戦闘は収束し、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催されました
惰性的に争いを続け、勝敗のつかないままの妥協でした

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