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Jii−Jiiの日記

今日は母の月命日です! 

2013年12月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

昭和43年1月11日没 享年63歳 亡くなって約45年になります。(その時ボクは生きていけないと考えていました。家族がありながら激しい悲しみ)ボクが北九州市小倉区・北九州支店に勤務していて、12月25日過ぎに年内最後の急ぎの仕事中に脳溢血で倒れて入院、年が明けて正月3日間の休暇中に見舞い、段々と良くなってきている、との担当医の説明で、安堵して勤務地(小倉)に帰りました。その後病状が急変悪化してなくなり、支店長の計らいで支店長車を使って別府に帰りましが、死にめに会えず、母の最後の言葉を聴くことは叶いませんでした。省みますと、ボクが小学校4年生の時に父と死別し、母は父の仕事の手伝いをしていましたので、見よう見まねで父の仕事を次ぐことが出来ました。ボクは、所謂母子家庭の困窮さも感じずに、(感じさせないように、きっと母が振舞っていたのでしょう。)高校に入学して大学に進学するつもりでしたが、同業者の勧めもあって、一旦高校卒業後、母の仕事を一緒にすることとなりました。高校卒業後の夏休みに、大学進学失敗した浪人2人が、今なら母と相談して大学進学を真剣に勧めてくれました。(浪人のうち1人の父親が、4年後 第二地銀の就職の支援・助言をしていただいた。)母は、その時凄い覚悟を持って4年間生活と大学授業料等の経済的負担に対して決断をしたのでしょう。全く下宿代や授業料など滞ったこともなく、ボクがアルバイトする事さえも禁止していましたので、今から考えると「全くのお坊ちゃま」でした。ボクが大学を無事卒業し、第二地銀に就職でき、銀行の取引先の紹介で入行3年目結婚し、母と共に過ごした1年間、(あとは県外へ転勤)、長男・長女の誕生等々を、母はきっと満足した、幸せの年月だったと思います。本当に、利己的な、気配りの効かないボクは、母に与えたものは全くありませんが、妻と長男・長女の4人家族(後に次女誕生)で安心させたことはボクとしては上出来だった思う。...

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