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雑感日記

学校での学問とは、何だろう? 

2010年09月12日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


考えてみると17年も学校生活を過ごしたことになる。戦時中、戦後と言う激変の時代であったからか、学校での教育方針も4つの学校で全然変わっていて、学問とか専門知識を学んだり、躾を学ぶところが学校だとすれば、学校で学んだもの、そして自分の身に付いたものがあるとすればそれは何だったのだろうか?★小学校これは朝鮮京城の桜ケ丘小学校、途中から国民学校と呼ばれるようになった。1年生に入学当時から既に中国とは戦争状態にあり、大東亜戦争も始まって、まさしく戦時中であった、ただ、戦時中でも内地と違って、空襲も疎開もなく、食糧事情なども何の問題もなくて、しっかりとした小学校教育を受けたと実感している。先生の名前を思い出すのも不思議なほど小学校時代の先生ばかりで、中学校以降はあまり先生の名前も覚えていない。戦時中であったからか、小学生ではあったが、子供としてはほとんど扱って貰った感覚はない。4年からは確か、男女別々の組み分けであったし、教育勅語も、毎月大詔奉戴日の8日には大詔の詔も奉読されて、それを直立不動の姿勢で聞いていた。学問というか教科の方はある程度、高いレベルで行われたのではなかろうか?結構全体の平均値のレベルは高く、いわゆる『落ちこぼれ』みたいな生徒はいなかったのではと思う。勿論、塾などはなかったし、毎日縮題があったりしたわけではないのだが、学校ではちゃんとよく勉強をした。よく遊び、よく学んだ小学校時代で、小学校レベルの学問は間違いなく身についていると思う。卒業時点では『府伊賞』という知事賞みたいなものを頂いた。学問だけなら、もっとできる人がいたと思うが、多分良く学びよく遊んだ戦時中の模範の生徒ぐらいのことだったのだと思う。ソウルのあの寒い冬に、靴下もはかずに6年間学校に通ったのは有名であった。別に親に言われたわけでもなく、何も威張れることでもないのだが何故かそれにこだわっていた。★中学校中学校は京城の城東中学校に入ったが、1年の夏に終戦、その年の暮に引き揚げてきた。翌年の春、神戸一中に1年から再入学した。神戸一中はいい学校であったと思う。どこの卒業か?と聞かれたら、躊躇なく『神戸一中』と答えたくなるような学校であった。ただ、学んだ学問と言えば、英語と数学ぐらいだろう。そのほかはそんなに覚えてはいない。学年で50番までを『特』と評していて、ずっと『特』であったし、一番いい時は10番以内にいた。これは中学2年生までの旧制神戸一中時代のことであり、3年になって県立1女と男女共学になる時点までであった。私が学校で、学問の勉強をしたと自分でも思うのは、この中学2年生のころまでである。そこまではよく勉強もしたし、特に英語数学は面白かった。教科の進み方が無闇と早かったので共学になってからは、ずっと以前に習ったところまで戻ってしまった、私の学校での学問として得た知識は、中学2年までである。それ以降、大学を卒業するまで、ほとんどと言っていいほど新しい知識を得ていないと思っている。そういう意味では、学歴は間違いなく、中学卒なのである。★高校学区制が敷かれて、高校は当時は野球の名門と言われた明石高校に進んだ。3年間、野球はホントに一生懸命やったのだが、勉強は授業は受けたが勉強した実感はほとんどない。高校に入って父が病気になり、大学に行かずに就職するつもりであったから、余計に勉強などしなかった。大学を受けるのに必要な進学適性検査もうけるつもりはなかったのに、野球部のトモダチが一緒に受けようと誘うので付き合ったまでである。でも、考えてみればよく受けていたものである。正月の1月2日に父が亡くなって、それから大学受験を急拠することになったのである。受験勉強をする期間も2カ月ぐらいしかなかったし、受験科目が少ないという理由で神戸商大を選んだのである。就職は既に決まっていたし、1校だけの受験であった。その年は16,5倍の競争率でとても通るなどとは思ってもみなかったのに、運よく通ったのである。高校時代、勉強をした期間と言えば、この最後の2カ月だけである。あまり覚えてはいないが、やりかけたら人並み以上に頑張る性格なので、多分一生懸命やったのだと思う。、★大学特に、目的もなく運よく入った大学であったので、のっけから勉強などする気がなかった。母子家庭で授業料免除、特別奨学金をもらっていたので、給料を貰いながら学校に行っていた様なものだった。学校のグランドと食堂には毎日顔を出したが、教室に入ったことはほとんどなかったし先生の名前も顔も知らなかった。大学とは不思議なところで、点が悪くても単位は幾らでもとれるのである。成績は『可』だが、単位はどんどん取れて単位だけは問題なかったのである。当時は、就職難の時代で『可』など取っていたら、いいところに就職できないからと、『可』なら単位は要らないなどと言う風潮もあって、どうもそれがイヤだった。第二外国語を中国語にしたのは、先生が中華料理店の先生でみんな『優』をくれると言う評判で、ドイツ語やフランス語を受けて落ちた3,4回生が諦めて受講する学科だったのだが、迷わず1回生から受講したのである。商大なのに何故か簿記は必須科目でなかったので、授業に出ないと点が取れない簿記は初めから受けていない。当時二桁以上の『優』がないと就職が難しい時代であったが、『優』は5つしかなくて、残りのほとんどが『可』で、それこそ二桁の『可』だったのである。その5つの『優』は、体育実技と体育理論、これは当時は阪神タイガースのトレーナーの先生で、運動部の学生は全員『優』なのである。それと中国語の1&2、もう一つは野球部の部長の田中先生の人文地理であった。卒業は昭和31年で不景気で、今年はコネでは難しいと砂野仁さんに言われて、1年卒業を延ばして野球部の監督をしていたのである。、★そんな学生生活であったが、昭和32年は、打って変わって『神武景気』になって、コネで川崎航空機に入れて頂いている。ただ、面接では『君は成績悪いねえ』という当時の人事課長塚本さんの一言で始まったのだが、神戸一中に入学することを薦めて頂いた砂野仁さんが、一中時代の『特』のこともご存知で、途中で野球の話などに助け船を出して頂いたりして、『君、面接だけはよかったよ』と、あとで言っていただいたりした。中国語の『優』二つは、後に川重が中国班を創る時に候補に挙がって、ほとんど片足を突っ込んでいたのだが、当時の単車の堀川運平さんや高橋宏さんなどが、本社に交渉して取り返して頂いた様である。そして当時の単車企画室堀川室長、高橋宏部長の企画に移ったのである。学生生活の学問など何だろう?技術屋さんや、弁護士などは確かに専門知識もいるのだが、少なくとも私が歩いた道などは、中学校までの知識があれば十分通用すると思う。学校はもっと人間としてのベースとなる何かを教えなくてはならないと思う。私はそれを中学2年までと、その後の運動部の生活で学んだと思っている。個別の勉強など社会に出てからでも、年金生活に入ってからでも、幾らでも出来るものだと思うのである。中学3年からは殆ど勉強などしなかった学生生活だったが、何とかなっているのは、『運がよかった』からだろう。人生77年生きてきたが、『運がいい』と信じていたらどんどん『運』は付いてくるものだと思っている。いまでも私は、人なみはずれて『運がいい』と信じて疑わないのである。思ったことは、ほとんど実現できる運の良さである。不平や不満など文句ばっかり言っていると、運など逃げてしまうのだろう。『信じる者』をヨコに繋げば、『儲かる』のである。 それくらい太平楽に生きるほうが人生はうまくいくと思っている。]]>

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