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平成の虚無僧一路の日記

「愛知一中」のOさんに聞く 

2013年08月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



映画『少年H』で、中学校の校舎を迷彩色に塗ったシーンが
ありました。ネットで検索すると、同様の話が。

「私が見た憲法」より

『欽定憲法下の中学校』 村上 宏 1927(昭和2)年 兵庫県生まれ
 2013年6月11日 記

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空襲の激化に伴い、敵機の目をごまかすため「白いビルの壁には
黒い色を乱雑に塗るように」との通達に従って、C中学の校史には
「竿の先に雑巾を付け、屋上の胸壁から乗り出してコールタールを
付けた」という生徒の体験談がある。

その一方で、私(村上氏)が居た D校(現神戸市、当時は武庫郡
魚崎町)は、「校舎を目立たなくしたって、運動場が目立って、
まるわかりだ。バカなことはやめとけ」と 校長が一蹴したと
「記念誌」に書かれている。

この校長先生は、軍人養成校への進学を勧めに来た軍人を前に、
「予科練などは 本校の生徒が行くところじゃない。『この中学へ
入ってきて間違った』と思うやつは行けばいい」と発言された由。

「日本は資源に乏しい国だが、お隣の国では 道端に石炭がゴロゴロ
転がっている。あれをちょっと欲しいなァということで・・・・・
(戦争が始まった) 」などとも 話された。

当時、これがどんなに危険な発言だったか。密告でもされたら、
校長のクビが飛ぶどころでなく、どんな目に遭わされても
文句が言えない時代だった。

英語の先生も風変わりだった。「"見る"と "見える"は 日本語でも
英語でも違うんだよ」と、教室の窓から外を眺め、配属将校が
運動場で教練をしていたのを見て、英作文の例題として、
「私は運動場の軍人を "見る"。彼はのんきそうに "見える" 」と。

これが当人(配属将校)の耳に入ったら、「帝国陸軍を侮辱するもの」と
して処罰されても当然だった。


「教頭」は さらに輪をかけた硬骨漢で、予科練志願の意向を示した生徒に
「お前はムダ死にしたいのか」と どなりつけたという。

「真珠湾で多数の敵艦を撃沈した」という大本営の発表に 生徒たちが
拍手喝采したとき、「ばかなことを喜ぶな。この戦争、しまいには
日本が負ける」と生徒たちを諭したと、D校の記念誌に書かれている。

他の中学では当局の顔色をうかがい「敵性国家のことば」として
英語の授業を「自主的に」廃止した後も、この学校では 勤労動員が
始まるまで 英語の授業を続けるほど偏屈だった。

反面、配属将校の一人を 戦後30年近くも事務職員として雇っていた
ほど 寛容でもあった。

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これを書かれた村上氏は
「この学校の生徒で 予科練を志願した者はいないし、各中等学校へ
予科練志願者数の割り当てがあったことは全く知らなかった。
校長や教頭が 国の至上命令を敢えて無視、握り潰していたのであろう。

何度も当局に呼び出され、注意や警告を浴びていたに違いないが、
生徒の私たちには何も知らされず、その実情は今となっては 永遠の
ナゾである。

ある日、校長が担当された「修身」の題目は「勇気」。危険なことに
立ち向かうだけが「勇気」ではなく、目の前のお菓子を食べずに
がまんするのも「勇気」だと説かれた。

国の方策に同調しなかったら、たちまち「非国民」「国賊」と非難され、
どんな目に遭わされるか判っていた時に、校長や教頭は 時勢に迎合せず、
これが“ほんとうの勇気”であることを 身をもって示していたのだと
気づいたのは、私が高齢者と呼ばれる年齢に達した頃だった。


と、この方は書いている。私もそうだ。つい昨年までは、こんな話を
聞いても、「時勢に逆らう非国民」と切り捨てていたのが、今年に
なってようやく「こんな校長や教頭、教師もいたのだ」と感動し、
涙がこぼれる。やはり歳のせいか。

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