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たかが一人、されど一人

「ミーハー族」VS「インテリ族」 

2013年07月25日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

最近あまり使われなくなった言葉に「ミーハー族」「ミーチャンハーチャン」がある。ウィキペディアによれば「元々は低俗な趣味や流行に夢中になっている教養の低い者や、そのような人を軽蔑して言う。テレビが普及し始めた1950年代後半、大宅壮一が唱えた「一億総白痴化」とほぼ時期を同じくして用いられた。」と書いている。小生もテレビの普及で流行り始めた比較的新しい言葉で、流行ものに敏感な若者たちで、いつの世にも存在する特定年代の少数派であろうとの理解であった。もう死語に近くなっているのでどうでもいいことかもしれぬが、今日劇作家の菊田一夫氏の随筆を読むと、認識が少し間違っていたようだ。菊田一夫氏は戦後娯楽が少なかった時代に、一世を風靡したラジオドラマの「鐘の鳴る丘(パソコンですぐ変換できないのが口惜しい)」や「君の名は」を書いた脚本家である。随筆自体が昭和24年の暮れに書かれているので、「ミーチャンハーチャン」は昭和20年代には生まれていたらしい。菊田氏によれば反対語は「インテリ族」。「ミーハー族」は「インテリ族」に深いコンプレックスを持っていて、「インテリ族」の言うことを無批判に肯定してしまう。従って日本人の大半が「ミーハー族」で、少数が「インテリ族」と言うことになるらしい。尤もらしいことを言われると、深く物事を考えずに受け入れてしまう。これが放送日に銭湯が空になると言われた「君の名は」大ヒットの所以だそうだ。「君の名は」男女が毎回のようにすれ違うドラマとして定着して成功したが、何年か連続したドラマの中ですれ違いシーンは一回しかないらしい。要するに、インテリの誰かが噂を流したらしい。菊田氏は大した学歴も無く、丁稚奉公から苦労の結果脚本家となって成功した。だから国民の大多数である「ミーハー族」が、ある日少数派である「インテリ族」の虚構を見破る日が来て、国の形が大きく変わるであろうことを期待する書きっぷりになっている。日本社会の捉え方として実に興味深い。菊田氏の言う「インテリ族」は、それでも多数派「ミーハー族」が曲りなりにでもコンプレックスを抱く対象になっている。当然ちょっと学があって、一見理知的、知性的でなくてはいけない。「そんな彼らに踊らされるな。」と皮肉っぽく書いているのだ。翻って今日を見ると、いつも訳の分からぬ風に踊らされる我々は「ミーチャンハーチャン」に違いないが、その風を吹かす「インテリ族」が見当たらない。風を吹かせているのが、こちらに輪をかけた「ミーハー」ではどうしようもない。典型的な「ミーハー族」を自覚できても、現代はコンプレックスを持たざるを得ないようなインテリが見当たらないが、他の「ミーハー族」に聞いてみたいものだ。

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