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平成の虚無僧一路の日記

西郷頼母は「三尺ダルマ」!? 

2013年07月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



武田惣角の研究家「池月映」氏からコメントをいただきました。

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最新の情報です。「牧野登」氏が、「会津人群像22号」(2012.11)に
投稿。大東流は西郷頼母が武田惣角に頼まれて創作したもの。
西郷四郎の「山嵐」は四郎独自の創意工夫のもので大東流とは無関係。

頼母の身長は138〜41cmで、現在の小学生と同じです。
名家に生まれ、頭脳明晰でも、「三尺ダルマ」と言われたことが、
へんくつ家老になった一因かもしれません。
武田惣角はの隣家に越してきた「佐藤金右衛門、忠孝」親子から
「御式内(柔術)」を教えられ、隣村の易者から密教・修験道・
易学を学び、「気」を導入して「合気」を創始し、妻コンと稽古して
「合気柔術」を仕上げたことになります。

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「西郷頼母」と「西郷四郎」がともに並んで写っている写真があります。
西郷頼母は四郎より二周りも小さい。西郷四郎も五尺一寸(153cm)の
小男でした。写真では、それより20cmも小さく見えます。
そして、顔は共に丸顔でよく似ています。

星亮一著『西郷四郎の生涯』によれば、「四郎」は「頼母」の
実子説が、当時から根強くあったようです。四郎の父とされる
「志田貞二郎」と 家老では格が違いすぎる。

西郷頼母は、容保公が京都守護職を引き受けることに反対し、
殿の怒りをかって、隠遁生活をしていました。そのことは
『八重の桜』でも描かれていました。その時、西郷頼母に
仕えていた娘と情を通じ、産ませた子が「四郎」で
配下の志田貞二郎に預けていた。なにせ、妻千鶴子との間にも
「二男五女」がいましたから。小兵でも性豪です

そして、一子「吉十郎」が明治12年に病没すると すぐに
四郎を入籍して「西郷家」を継がせているのです。このこと
からも、他人とは思えないというのです。はて・・・

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