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平成の虚無僧一路の日記

福沢諭吉は芸術、宗教にオンチだった? 

2013年06月05日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「福澤諭吉」は、実利主義といいますか、「美術や文学」
そして「宗教」については、無関心だったようです。
書画骨董の趣味も無く、庭いじりをすることもなく、
塾出身者が茶の湯や謡曲などにふけると叱ったと
いいます。

もっとも侍は寄席や芝居小屋への出入りはしないのが
建前でしたから、江戸時代は観たこともなかったのでしょう。

福沢諭吉が、寄席を観にいくようになったのは、明治5、
6年頃からでした。これも演説の参考にするという意図が
あったようです。

これは私も同じ。今尺八と講演で食べている私ですから、
落語や講談、「きみまろ」は大いに参考にしています。

福沢諭吉が初めて「新富座」に芝居を観に行ったのは
明治20年。「福沢先生芝居を観る」と「時事新報」に
記事が載ったほどでした。

そんな福沢諭吉でしたが、娘達には琴、三味線、長唄、
舞踊など、自宅に師匠を招いて稽古事を習わせ、自宅で
おさらい会などを催して、喜色満面だったといいます。


福沢諭吉の次男が「捨次郎」。父「諭吉」は「妻以外に
結婚前も後も一人も女子との接触はなし」というほどの
潔癖性でしたが、子供たちは自由奔放に育てられ、
芸者遊びも派手でした。

「捨次郎」が京都の芸者に生ませ子が、私の尺八の師
「堀井小二朗」です。「捨次郎」の子ですから「小次郎」が
本名ですが、それを嫌って、芸名は「小二朗」と名乗って
いました。堀井小二朗師は、京都で生まれ育ち、幼少の頃から
母の長唄、地唄を聴いて育ち、8歳で「八重衣」を
諳んじていたといいます。そして、父「捨次郎」の庇護のもと、
慶応に入学し、池上に家屋敷も与えられていました。

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