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徳川家康と駿府 

2013年05月12日 外部ブログ記事
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日本平からの富士山(引用)
『江戸連』で静岡県散策しました、訪問先も興味有り楽しい散策でした

何故家康は、2年で息子に将軍職を引き継いだのか?
駿府では、大政所として何をしたのか?


徳川家康像





久能山

家康の、将軍職を引き継ぎ
1605年家康は、息子秀忠に将軍職を譲る為、諸大名を引き連れて上洛しました
息子秀忠も、家康から数日後、大軍を引き連れて上洛しました
1605年に朝廷より宣旨が下り、家康から秀忠の将軍職交代の儀式は終了しました
家康は、将軍職を引退して、大御所となりました

秀忠への将軍職の引継ぎ
秀忠は、諸大名十数万もの大軍で、京都の大群衆が見守る中を伏見城に入りました
伏見城内で、将軍の宣下を朝廷から受け二代将軍となりました
家康は、豊臣秀頼に対し、秀忠将軍就任のために上洛するよう申し入れました

家康が2年で将軍職を引退した理由
徳川政権は、政権を世襲することを天下に明らかにする為です
当時の大名は、「天下は回りもの」と考えていました、秀忠を将軍にする事が急務でした
家康は、大御所という地位で、駿府で政の仕事をしました
秀忠は、江戸で将軍見習いの帝王学を身に付けていました




駿府城
家康が、大政所の地を駿府に決めた理由は5つです
幼年時、駿府に住んでおり、故郷のように駿府が感じるからです
富士山が北の空にそびえ、左右に山脈が連なり、冬は暖かく老人に向いている
お米、魚介類が美味しい
南西に、大井川・安部川が有り、北に箱根の山があり、要塞としても堅固です
幕府に参勤交代する、西方の大名が駿府に来て拝謁するのに便利である




昼食の『麦ととろ』
家康の駿府でした事
大名たちを束縛し、被官化させ、朝廷の権威を空洞化させ政治から無縁にしました
寺社の勢力を押さえ込みました
将軍秀忠の帝王学の教育する(優秀な息子達は既に養子に出していました)




キリシタンの殉教の碑
駿府から始まったキリシタンの迫害
1597年頃、駿府の教会設立は設立されており、江戸より早いです
1607年スペイン国王の使節が来日し、家康に謁見し駿府、江戸での布教を願い出ました
使節は、駿府のキリシタン信徒たちの熱狂的な歓迎を受けました

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