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平成の虚無僧一路の日記

一休の母の手紙 

2013年02月16日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



千葉の館山寺に「一休の母の手紙」というのがあるそうです。
後世(江戸時代)の創作でしょうが、これを創った人は、
実によく「一休の禅」をとらえていると思います。

内容は、
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釈迦も達磨も自分で悟りを開いたのです。釈迦は教えを説いたといっても
一字も書き残してしはいないのです。百万巻もの経典を誦んじたとしても、
それは糞虫とおなじこと。釈迦や達磨を奴とするほどの修養を積めば、
どこぞの寺の住職などにならなくとも、俗人のままでも良いではないですか。
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というもの。

一休は、15歳の時、安国寺を飛び出し、西金寺の謙翁の下に
弟子入りします。謙翁は、肩書きを否定し、乞食行(こつじき
ぎょう)ひと筋の托鉢僧でした。

一休20歳時、謙翁が亡くなると、一休は寺を継ぐ資格も無し、
路頭に迷い、絶望からか、瀬田川に身を投げるのです。
その時母の声を聞いて生還します。臨死体験をするのです。

この時の状況をふまえて、この「母の手紙」が創られたと
私は考えます。

経典は釈迦の没後500年1000年を経て、後世の僧たちに
よって書かれたもので、釈迦は一字も書き残していない
のです。ならば「経典を諳んじるくらい学んだところで
釈迦のように修行をしなければ、糞虫と同じです。

釈迦や達磨をも僕(しもべ)となすくらいの修行を積んで、
人々の苦悩を救える人になれたら、どこぞの寺の住職なんて
肩書きはいらないではないですか。俗人であったって
いいじゃないですか」と、母は一休に言うのです。

ここには、江戸時代、すでに「葬式仏教」への不信と
批判のまなざしが見てとれます。


江戸時代、浪人となり路頭に迷った「虚無僧」達は
この「一休」を師と仰ぎ、寄る辺としたのでしょう。
経典も必要ない。寺も要らない、肩書きもない、教義もない。
すべては己のみ。虚無僧は「僧」であって「僧」でない、
俗人のままでいい。一休の母がいう、衆生を救うことが
できたら、どこぞの坊さん なんて肩書きはいらない。
それが 虚無僧なのです。

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