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平成の虚無僧一路の日記

松平容保と照姫 

2013年01月02日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



テレビ『白虎隊』では「藩主松平容保と姉照姫が兄妹の
なさぬ仲」だったとしている。ジェームス三木のドラマ
だから、話を面白くするためは見えみえ。

「照姫」の扱いには、今までのドラマはみな苦労している。
「姫様」というのだから「容保」の娘という扱いもあったが、
実は「容保」より3歳年上の出戻りであった。


そもそも、会津藩 第9代藩主「松平容保」は、美濃の
高須「松平義建」の第六子として、天保六年(1835)年
江戸四谷邸で生まれた。17歳で会津藩第8代藩主
「松平容敬(かたたか)」 の養子となった。
実は、8代「容敬」も美濃高須家から養子に来ており、
「容保」は「容敬」の甥になる。会津藩主は8代、9代
が美濃高須家から来ている。10代は、なんと徳川慶喜の
弟「喜徳」である。

照姫は、天保3年(1832)上総飯野藩2万石「保科正丕
(まさもと)の三女として生まれた。10歳の時、会津藩
8代藩主「松平容敬」の養女となった。この保科家は、
会津藩と親戚になる。本家筋なのだ。

照姫は、18歳で、備前中津10万石「奥平大膳大夫昌服」に
嫁いだが、五年後の安政元年(1854)23歳で離婚となり、
江戸の会津藩邸に戻った。

慶応四年(1868)正月、鳥羽・伏見の役で幕府軍は大敗し、
2月、会津藩邸の総引き揚げで、照姫は初めて会津入りした。

というわけで「容保」と「照姫」は、二人共先代「容敬」の
養子、養女で、血のつながらない姉弟。二人の接点は
会津籠城の時ぐらいである。ドラマのように「照姫」が
京都に行っていたという事実は無い。

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