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平成の虚無僧一路の日記

行乞の人「山頭火」 

2012年12月03日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「山頭火」の生き様は、私の憧れの的である。私の
生き様は「山頭火」によく通ずるものがある。

村上護の『山頭火と歩く』によれば、「山頭火」は、
正規の僧職の資格は有していない。「私が行乞で
生きていけるのは、袈裟の功徳と、行乞の技巧の
ためである」。そして「世間には、僧形を装って、
いろいろ悪事を為す輩もいるが、行乞が一等よろしい。
かえりみて“やましい”ところがない」と語っている。

行乞で生きる代償として「山頭火」は三つの請願を
立てていた。
「今日一日 腹を立てないこと」
「今日一日 嘘を言わないこと」
「今日一日 物を無駄にしないこと」

これは「朝起会」の「五つの誓い」と同じだ。

「行乞」の行為は「乞食」と変わらぬものだが、
恵みだけにすがるコジキに堕するにはプライドが
許さなかった。「与えられるままで生きる。
木の葉の散るように、風の噴くうに、縁あれば
留まり、縁無くば去る」。

見ず知らずの人の施しに頼るだけでは食べていけない。
「山頭火」は、その自由律の俳句で多くの信奉者を
得ていた。そうした「俳句の友」を訪ね、逗留し、
支援を得ていた。

私には「尺八」がある。「尺八の仲間」が居る。
「山頭火」は、「世捨て人」であるが、世相に
関心が無かったわけではない。俗世間の中で、
「行乞」の人として生き、多くの支持者を得た。

私も同じかも。

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