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平成の虚無僧一路の日記

先祖のこと 

2010年07月15日 外部ブログ記事
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映画『必死剣鳥刺し』を見て、会津藩の側室事件を
思い出した。

また「慶応中等部」のOB会報が来て、中等部の
体育館を建て直すので、遺跡調査をしたら「会津藩
下屋敷」の跡が出てきたとの調査報告が載っていた。

そう、私が中等部に通っていた頃は全く気づいていな
かったのだが、三田綱町一帯は会津藩下屋敷だったのだ。

私の先祖、牧原只右衛門直源は、系図に「御田屋敷で
生まれる」と書かれている。「御田」が「みた=三田」で
あると気がついたのは、名古屋に来てから。近くに
「御田(みた) 中学」があるので「御田」は「三田」と
読むと気づいたのだ。

私が通った慶応中等部は、先祖の縁(ゆかり)の地だった。
慶応に入れたのもご先祖様のご縁か。

保科正之の正室は藤木氏の娘「お万」。その子「正経」が
二代藩主となったが、病弱で子供がなかった。そこで「正経」
の後、三代目は、正之の側室が生んだ「正容」が継いだ。

私の先祖牧原只右衛門は、13歳の時、保科正之の6男
「正容」の小姓となった。その「正容公」が たまたま 藩主に
なったため、側用人として、500石取りにまで出世する
ことができた。

サラリーマン社会も同じだ。自分の仕えていた上司が
社長にまで出世すれば、取り立ててもらえるが、上司が
失脚すれば一蓮托生だ。すべて運不運。いや運を呼び
込む能力も必要か。]]>

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