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平成の虚無僧一路の日記

『鳥刺し』 と 保科民部 

2010年07月14日 外部ブログ記事
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(役 小日向文世)と「津田民部」(役 岸部一徳)という
名前が登場する。会津藩家老の「保科民部」の姓名が
分けて使われている。

偶然か、あるいは藤沢周平は意図的に この名前を使ったか。

保科正之が会津藩祖となる前、山形の藩主だった時のこと。
隣の白岩領(現寒河江市)で農民一揆が起きる。映画『鳥刺し』
では、別家の帯屋隼人正が農民に理解を示し一揆を鎮めるが、
結果的に首謀者は打ち首、獄門となる。

それと似たような事件だ。  
白岩領は酒井忠重の所領で、代官が納めていた。そこで
一揆が起き、代官は手に負えず、山形に助けを求めてきた。
それで、城代家老保科民部が、白岩に赴き、百姓達に
「お前達の言う所は一々もっともである。山形へ来て、
保科正之に直訴したら良いだろう」と勧めた。

百姓たちは大いに喜び、代表35名が山形へ出向いたところ、
全員が牢に入れられた。保科正之は老中酒井忠勝へ書状を
送ったが返事がない。再三督促したが、裁きが無かったので、
正之の命で、白岩の百姓ら35人は、磔にされてしまった。

過酷な処置だが、島原の乱直後の不穏な時代であり、幕府の
威光を示すための英断であったとする向きもある。

さて、保科正之はその後、会津23万石に移封する。その
正之の妾お万の方が、政治に口出しし、その専横を極めた。
正之は、女の恐ろしさに懲りて、「婦女子の言は一切聞く
べからず」と遺訓を残している。

そして、3代藩主正容の時、保科民部の孫、民部正興が
政争に敗れて、「知行を召上げられ、小川庄水沢へ配流」と
なった。真相は不明だが、側室がらみの事件のようだ。

なんか、『鳥刺し』のテーマそのものだ。
この時、我が家の先祖も連座するところを、殿様の格別の
温情をもって許されている。
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