メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

尺八と横笛吹きの独り言

中野駅界隈・・・・fue散歩の巻 

2012年06月02日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

●写真は勤務地から近い「平和の森公園」だ。 

この広い敷地・・・・ジョッギングをする人、幼稚園の園児がお弁当やおやつをひろげている、音楽を聴く人・・・・ほんと名前の通り平和な公園です。
 でもここが中野刑務所だったなんて・・・・お年寄りの方や地元の方以外は知りませんでしょうねえ・・・・私もこの公園に散歩してからあとからネット検索で知りました。
 土地とそこに住む人、そして歴史・・・・過去をひもとくとそこには隠れた発見がみつかる。
 中野刑務所跡地の表示があるらしいが、捜したが見つからなかった。思い出したくない過去の歴史でフタをしたい気持が強いのかしら・・・・地域にとっては刑務所跡地なんてイメージダウンなのでしょうか?
 しかしそうならばなおさら、好奇心が働くのです。
暇な一時、自転車を利用して「好奇心命」のfue散歩がはじまった。
そこには様々な発見がありました。

●昔はここいらは東京府(ふ)豊多摩郡野方村(のがたむら)でした。
豊多摩刑務所 (とよたまけいむしょ) は、大正・昭和を通じて東京府豊多摩郡野方村に存在した刑務所。豊多摩監獄や中野刑務所と呼ばれた時代もある。
特に1925年(大正14年)の治安維持法制定以後は思想犯が多数収監された刑務所でした。
 この平和を願って作られた「平和の森公園」、昔ここに多くの思想犯が収監されていました。

 
●これが中野刑務所の監獄正門跡だ。
四万坪に及ぶ跡地は現在、平和の森公園および法務省矯正研修所東京支所となっているが、そこの敷地内に監獄の表門は遺っている。

主に治安維持法に抵触した政治犯や思想犯の収容所であった。
 亀井勝一郎や蟹工船の小林多喜二も治安維持法違反で収監されていたんだねえ・・・・
小林多喜二が収監されていたのは1930年頃で蟹工船(プロレタリア文学としての旗手であった。蟹工船での悲惨で過酷な労働に労働者が組織的闘争に立ち上がっていく内容)を書いた後だ。
•大杉栄 - 1919年(大正8年)〜1920年(大正9年)
•荒畑寒村 - 1926年(大正15年)
•亀井勝一郎 - 1928年(昭和3年)〜1930年(昭和5年)
•小林多喜二 - 1930年(昭和5年)〜1931年(昭和6年)
•三木清 - 1930年(昭和5年)、1945年(昭和20年)獄死
•中野重治 - 1930年(昭和5年)、1932年(昭和7年)〜1934年(昭和9年)
•埴谷雄高 - 1932年(昭和7年)〜1933年(昭和8年)、1941年(昭和16年)
•河上肇- 1933年(昭和8年)(途中で小菅へ。小菅で1937年(昭和12年)まで)
•戸田城聖 - 1943年(昭和18年)〜1945年(昭和20年)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 
●これは中野区役所前(中野サンプラザ隣り)の「お犬様」の像だ。
ここにも歴史がある。ここはNHKのブラタモリでも紹介されたところ。
ここいらの中野区4丁目あたり、1685年頃だ。5代将軍の徳川綱吉の時代におよそ10万頭の「お犬」様を囲っていた土地だった。ここは「御囲い」(おかこい)という地名だ。
 私の知人に「御囲い」さんというのがおりまして、この地から出た名前に違いない。
悪名高いあの「生類憐れみの令」を出した綱吉が、野犬保護地区としていた「お犬屋敷」があった。10万頭を飼育するには年間費用が10万両かっかったというから無駄遣いの悪令に違いない。この中野村に15年間、犬がウヨウヨして囲いでキャンキャンしていた。ここにサンプラザが立ち区役所が建つなんざあ・・・・当時のおいぬ様は当然知るよしもない。


●中野「四季の森公園」だ。
広い公園で、自転車で散策していたら、「ここは降りて自転車を押しながら歩いて下さい」とていねいに注意された。
 ここには中野警察学校があった敷地。
現在、警察大学校跡地約16.8ヘクタールのうち、3.5ヘクタールにオフィスビルを中心とした大規模複合開発事業「(仮称)中野駅前開発プロジェクト」の開発に着手している。
警察大学校跡地では、1.5ヘクタールの都市計画公園や道路が整備されるほか、早稲田や明治などの大学の進出も決まっており、既に東京警察病院が開業している。(情報提供:週刊住宅新聞社)
 あらゆるところで工事している。クレーンやコンクリートミキサーが行き交う。
手前が帝京平成大学、奥のクレーンが見える建物が明治大学、早稲田通りに面して早稲田大学(早稲田寮とショッピング)現在建築中だ。
 中野区は文京都市・大学都市に生まれようとしている。

 
●お犬様がいた「御囲い」(お囲い)平面図・1685年頃(「四季の森公園」での写真から転載)
 元禄のころの地図だからわかりずらいが、「お犬様」の囲いが三つ四つあるのがわかる。これから立つ帝京平成大学や明治大学の地は、昔は犬がウザウザいましたワン。

 
●警察大学校があった時代の前は・・・・中野電信隊時代の写真。
鉄道隊・気球隊などの時代。(明治30年頃)
気球を飛ばして、爆弾を落とすことも考えたらしい。

 
●警察大学校時代。おおきい建物が警察大学校だろう。運動場もみえる。
ここも「お犬さま」の、お囲いがあった土地だ。
警察大学校の前は陸軍中野学校 (りくぐんなかのがっこう)があったようだ。
あの「陸軍中野学校」(市川雷蔵主演)がここにあった。
●陸軍中野学校とは諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍の軍学校(実施学校)。
かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。
1945年1月3日に中野学校に入校した第8期生150名のうち、90%以上は一般大学や高等専門学校の出身者で、東京帝国大学出身者が最も多く、次いで拓殖大学、東京外国語大学、そして早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学等が続いた。一般大学出身者から数多く選抜された理由は、諜報員として幅広く高い学識と冷静な視点が求められていたためである。
●ルパング島から帰還した小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年(大正11年)3月19日 - )は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少尉で情報将校だった。
陸軍中野学校二俣分校卒(小野田さんは静岡県浜松市にあった中野学校を出た秀才)。
太平洋戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰還を果たす。


●ここは中野区桃ヶ丘小学校跡地で今は中野マンガアートコートになっている。
JR中野駅のサンプラザとは反対側の南口かた徒歩で3分位の近さ。
いかにもかつての小学校の玄関と想像できる入り口だ。
●さてこの小学校の沿革から(中野区議会議員市川みのるさんのブログから転載)
明治32年、中野町組合立農業補修学校が設立(モット昔はここは牧場で牛がいたらしい)、明治45年には「府立実業学校」へと転用され、大正15年に「府立中野家政女学校」(現在の都立鷺宮高校)、昭和4年に「府立高等家政女学校」、昭和13年に「府立第11高等女学校」、昭和21年には、「都立杉並工業学校」「都立農業工業学校」「都立中野工業高等学校」と変遷の歴史を刻んでいる小学校。
こんなに歴史のある文教地区が中野マンガアートコートになっている。
 笑点で有名なキクチャンこと林家木久扇(昔の林家木久蔵さん)はここに昔、中野工業高校があった時代に通学して食品化学科を卒業している。
 しかしここになぜ小学校の跡地のここがマンガのアートコートになっているの?

 
●中野マンガアートコートでのアニメ作品。
中に入って見学してみました。ギターでの演奏や、マンガやイラストを描いている姿がありました。
 我々がちょいと想像できない世界。こういう世界もあるんだね・・・・
演劇・声優・芸術(ミュージック・写真)などの中野の独自文化を拡大深化するための施設になろうとしている。

今や
中野区はアニメやマンガから若者文化を取り入れて、大学都市、ショッピング、芸術鑑賞(サンプラザ・ゼロホール)へとつながるカルチャ都市に大変身しようとしている。
●中野区には若い人がたくさん住んでいますし、劇団員やお笑い芸人、アニメーターたちといったクリエイティブな職種の人も数多く住んでいます。こういった分野の産業を育成していけば、事業所数が増加し自然と交流人口や他地域との交流がすすんでいく。
●中野ブロードウェイはいまや音楽、漫画、アニメといった文化の拠点として知られており、土日ともなるとサブカル好きの若者たちでゴッタ返しています。
●こういった土地柄で、桃ヶ丘小学校の跡地をどう利用するかで・・・・考えた末、お笑い・演劇・ダンス・アニメ・音楽などの表現文化活動を支援するための施設にしたいと結論をだしたようだ。
 

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ