メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

千代田生命ビルのコンセプト 

2012年02月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



千代田生命中目黒本社ビルは、昭和35年、千代田生命
創業50周年を記念しての一大事業として企画された。
時の社長「門野雄吉」は、千代田生命の創業者「門野
幾之進」の息子。お坊ちゃん育ちのボンボンだった。

海外の保険会社を視察して、郊外の広々とした所に建つ
美しいビルを見て、わが社も、都心から郊外に本社を
移そうと提案した。

その建築を、当時、日本生命の「日生劇場」を建てて
注目を集めていた「村野藤吾」に依頼することとなった。

そのことで、日本生命に照会したところ、日生の担当者は
「大変なことになりますよ」と忠告してくれたが、当時、
千代田の担当者は その意味が判らなかったという。

この時、村野藤吾は すでに70歳を越えていた。
土地は、目黒区の「アメリカンスクール」が立川に
移転するため売却を望んでいるとの情報を得て、
大成建設の子会社有楽土地がその周旋に当たった。

村野藤吾は、アメリカンスクールを視察し、高低差の
ある敷地をどう生かして建てるか、構想を描いた。

?千代田としては、業界に誇れる高層ビルが欲しい。

(当時、住友生命が、新宿をはじめ各地に高層ビルを
建てていた)

?「日生劇場」は劇場だから窓の無い暗室だった。
千代田ビルはオフィスだから、できるだけ陽光を
とりいれる外壁にしたい。

?だが、住宅地である。周囲の住民にとって「鉄と
ガラス、コンクリートの壁」を造ってはいけない。
光を跳ね返す建物ではなく、光を吸収する建物に
したい。

(当時、丹下健三が、毎日新聞社ビルや旧都庁ビルなど
鉄とガラスの外壁で、これぞ「モダン建築」と絶賛
されていた。それに村野は異議を唱えたのだ)

そして、何より、保険会社は「人々のライフ(生活)」を
守る会社である。平和がシンボル。周囲の住民の
憩いの場になるような、平和で温かいぬくもりを
感じる空間にしなければならない。

さて、それから1年半の間、設計は遅々と進まず、
千代田の担当者はやきもきしていた。その頃、
村野藤吾は、秘かに、粘土で50分の一の模型を
作らせていた。一片が2mもある巨大な粘土細工が
現出していたのだ。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ