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平成の虚無僧一路の日記

会津保科家の誕生は「見性院」のおかげ 

2011年11月27日 外部ブログ記事
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さて、徳川2代将軍秀忠は、年上の正室「お江与」に頭が上がらぬ
恐妻家だった。それが、乳母の下女に手をつけ、懐妊させてしまう。

その下女の名は「志津(静)」。父は、神尾栄加といい、北条家
最後の当主「氏直」の家臣であった。天正18年(1590)北条氏が
滅び、その後の関東に入ってきたのが家康であるが、家康は 北条家の
遺臣も懐柔政策で臨んだ。だから「志津(静)」も大奥勤めに上がる
ことができたのであろう。

志津は 将軍秀忠の子を身籠ると、御台所「お江」の目を怖れて、
宿下がりし、神田白銀町の姉婿の家で、男児を出産する。慶長
16年5月7日(1611)。その知らせは、翌日、南町奉行を通じて
老中土井利勝に伝えられた。利勝は秀忠に報告、秀忠は「幸松」と
名づけ、葵の紋服を 利勝に手渡し「穏便に養育するように」
言ったという。

そのことは、やがて「お江」の耳に達し、「お江が詮索している」
という噂が流れ、志津は「大乳母殿」に訴え、「大乳母殿」は
土井利勝に相談した。

慶長18年3月2日、老中 土井利勝と本多正信の計らいで、
「幸松」は、北の丸比丘尼屋敷の「見性院」に預けられる。

「お江の方」は幸松が見性院に預けられたのを知り、使いを
送って責めた。見性院は「預かっているのではない、養子に
頂いたのだ」とはねつけた。

見性院の許で育てられた幸松は、元和3年(1617)信州高遠に
移り、保科正光の養子となる。

見性院は、幸松を手放して5年後の 元和8年5月9日(1622)、
北の丸の比丘尼屋敷で亡くなった。79歳。

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