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平成の虚無僧一路の日記

統一教会関連記事の転載 

2022年11月27日 外部ブログ記事
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統一教会と自民党。
なぜ韓国発祥の統一教会が日本を好んできたのか。そして「新興宗教がどう自民党に食い込んだのか」
これらが韓国の文献ではどう記されているのか。
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教祖と日本、10代からの縁
日本は統一教会信者が世界でもっとも多い国だ。教団発表の資料では日本の信者は「10万人」、日本のメディアでは「30万人」と報じるメディアもある。今はマスコミに叩かれて6万人に落ち込んだとも。
「最大の信者数」にして「最初の宣教の国」が日本なのだ。
なぜ日本だったのか。
もともとは初代教祖文鮮明とって「勝手知ったる国」だった。
文鮮明(1920ー2012年)は日本統治下の朝鮮半島北部で生まれた後、19歳の頃に早稲田大学系列の工業高校に留学し、同校を卒業している。
しかし、それでも日本を恨まなかった。
「1945年8月15日の後、韓国に居住していた日本の憲兵を家族とともに日本に無事に帰国できるように助け、その内容が日本人たちを感動させた」という。
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文鮮明氏(1983年)(写真:Fujifotos/アフロ)

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当初から「政治的つながり」も重要ポイントだった
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そんな日本が1954年の教団設立後は、布教活動においてメリットの大きい国となる。
韓国より人口が多く、経済力がある。そして入り込みやすい事情があった。
「キリスト教が浸透していない国」
「自ら設立した政治団体を活用しやすい国」
「共産主義の脅威を共有しやすい国」
文鮮明総裁が日本に宣教師を派遣したのは韓国で世界キリスト教統一心霊協会を設立した4年後の1958年。韓国と日本は国交も結んでいなかった頃だ。

「文総裁は日本への宣教についてまずは日本を救い、次に韓国を救うためだと強調した。当時は世界の国々がひとつ、ふたつと共産化しており、もし日本が共産化したり、融共(共産主義と融和する)の立場に立つことになれば、韓国が危機に処することになると予想される。それゆえ、共産主義を壊すことのできる新しい思想を装備させ、日本に(宣教の人材を)送った。日本が経済的な面でも世界の宣教活動の拡大のために先導的な役割を果たすと期待したからだ」

韓国内の既存のキリスト教会からは、統一教会は異端として排斥運動が強まっていた。それで海外に活路を見出す、という面もあった。
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1988年の合同結婚式の様子(写真:Fujifotos/アフロ)

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「勝共連合」とは?
教団は日本にあって自民党にどう入り込んでいったのか。
安倍氏の死後、7月17日に現地メディア「時事ジャーナル」が「文鮮明語録『安倍会派13人だったが私が88人にまで育てた』」という記事を掲載。こういった内容が記されている。
統一教会が正式に日本で設立されたのは1959年。韓国での創立から5年後のことだった。その後、1968年1月に韓国に国際勝共連盟が設立され、4月に日本国際勝共連盟が設立された。70年安保騒動の渦中にあった時、安倍首相の母方の祖父、岸信介元首相が団体に加わった。起業家の笹川亮一から文鮮明を紹介され親密な関係となった。
「勝共連合」とは「反共」より強い概念を基に勉強会や講演会をやり、そして街中でデモや集会を繰り広げる組織。韓国では全盛期だった1975年にはソウル市内汝矣島での集会に100万人規模が集まるなど大きな盛り上がりを見せた。
教団は日本での宣教活動でこの組織を活用しようとしていたことは明らかだ。当時、日本の統一教会宗教法人会長と日本国際勝共連合の日本支部長は兼任(久保木修己氏)だったのだ。
信者に「3年半、死んでも朝鮮大学の前でデモを続けろ」 
ではなぜ、これが自民党側にも「受け入れられた」のか。
「当時、保守政界の応援部隊として若い統一教会信者たちが、真面目に、言いなりになって動くということはとっても利用価値が高かった」
岸や笹川などの右翼政治家のおかげで、統一教会は日本に定住し、他の政治家との関係を円滑に拡大することができた。このように、日本の統一教会の発展を助けたのは岸信介元首相だった。1974年5月と1976年12月に東京で開催された文鮮明の講演「希望の日の晩餐会」は、岸が2回とも名誉会長として支援した。岸元首相は、1984年に統一教会が開催した「世界ジャーナリスト会議」の議長を務め、文鮮明とも対談した。
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安倍晋三氏の祖父 岸信介元首相(写真:Fujifotos/アフロ)

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