メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

ニャンコ座リポート

メメント・モリ (9/24) 

2022年09月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 起きたら、右人指し指のネイルシールが無くなっているのに気づきました 。髪洗った時でもとれたかな。 息子は、アーティストとして(言ったもん勝ち)、国葬に面と向かって反対しても、盛り上がれば上がる程、あの人の性格上、それをねじ伏せて強行する方が嬉しいんじゃないか、思うつぼなんじゃないか、だから、27日って何かありましたっけ?のスタンスでいくことにしたそうです。
 思いついたのが、自身の生前葬をぶつけるだったのですが、「なぜ市議」の公演から時間が無さすぎで準備できずにいた所、公演を観に来てくれた知人から、生前葬の企画を譲り受けたいと申し出があり、譲ったうえで、葬儀委員長を引き受けたそうです。 ?Moreに、息子の文章を入れてあるので、ぜひ読んでください。首をひねる点も、一理あるなと思える点も色々あります。 27日にやるかどうかはともかく、私も生前葬には非常に興味があります。まともなうちに生前葬を企画し、会いたい人に来てもらって、ちやほやされて、お礼とお別れを言いたいです。もちろん歌いたいし、案内状は凝りまくるし、ドレスも新しいの買うし、会場の飾りつけは一世一代で・・・などと思うとワクワクします。生前葬の場合は、喪主は自分なんだそうで。でも、生前葬の後一向に死ななかったら恥ずかしいし(恥ずべき事じゃないけどさ)、案内出しても来る人少なかったら傷つくし、なかなか思い切ることはできません。 祐さんが出たテレビドラマで、生前葬が取り上げられていて、そこに「メメント・モリ」が出てきました。「memento mori」は、ラテン語で、「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘るな」「死を忘ることなかれ」と言う意味だそうです。はい、その通りだと思います。 私はこのブログにも、あまり具合悪くて生きるの嫌になると書く時がありますが、これ、比喩です。生きるのが嫌になる程具合悪いと言っているだけです。とりあえず自ら死んでしまうことは無いと思いますが、何かの拍子で死ぬことはあるかもしれませんし、まっちょっと残念ですが、それも仕方ないです。やりたいことはやってきましたから。 葬儀委員長さんが、「弔電もお待ちしてます」と書いていたので、変なお母さんとしては、協力せねばと思いました。いっちゃんのお葬式にいただいた、何本かの豪華弔電を引っ張り出して研究しました。次に、ご本人様のデータを知るために、ちょっとだけリサーチしました。 ゴスロリファッションが好きで、2年も前ですが、大好きなウサギのぬいぐるみを落として嘆いていることがわかりました。 考えること30分ほどで、天から降りてきました。黒に金のリボンの模様入りの別珍の布を貼った二つ折り台紙に、「mementomori」と書いた弔電を挟み、表にはウサギさんをチクチクで作って載せました。急いでいたので若干雑ですが、かわいくできたと思います。気に入ってもらえたら良いけど、自己満足で良いです。 27日は、おのおのが「死」について、「葬儀」について、考える日になれば良いなと思います。 この写真を説明付けずに知人に送って、感想を求めたら「おいしそう」と返ってきました。お餅に見えたらしい。 9月27日をどのように迎えるかというのは、自分の政治的立場を否応なしに表明させられるわけですけども。 多くの仲間たちが反対運動をしていることには敬意は表しますが、なんというかあの男の陰湿な人間性だと「そこまで反対も起きずに国葬が行われる」より「めっちゃ反対運動が起きてもそれをねじ伏せて強行する」方が好きそうじゃないですか。「え、今日はなんかイベントあったんですか」って無視させる方がよほど堪えそう。なんで、わざわざ反対運動盛り上げて喜ばせてやるようなこともなあという引っ掛かりがあるのです。 じゃあ、一才何もしないというのが時事ネタアーティストとしてどうなのかというのを考えると、「イベントをぶつける」というのが最善手かなと思ったわけです。盛り上がるパーティーをするってのも考えたけども、似たようなものを被せる方がコンセプチュアリーアートとして良いだろうなということで「生前葬」を考えたわけですが、とはいえしばらく死ぬ予定もないし、19日まで公演していて準備も間に合わんよなあと考えていたのですが、初日に見にきた宗岡さんが「生前葬ってアイディアすごくいい、私がしたい」と言ったので、そのアイディアを譲り、彼女の生前葬をすることになりました(私は、葬儀委員長を拝命しました)。 宗岡茉侑という俳優は、10年前くらいに何回か出てもらった俳優なのですが、決して上手い役者ではなかったのですが、なんというかとても不思議な魅力がある人でした。彼女がやってきたパフォーマンス(自宅で卵焼きを作ったり手首を切ったりする一人芝居をする、8月の鴨川デルタで毎朝6時半に公演、恋人オーディションの開催→ガチで恋人をオーディションした、まだ彼女がいなかった髭だるマンも僕の勧めで応募した。全員落選したけど)の発想は、およそ「演劇人として成功したい」からは程遠い、深い業を感じます。彼女と話しをするのはとても刺激的で、とても楽しいけども、だからと言って毎回稽古場にいられても、人間としても俳優としても困るということで、「良い意味でも悪い意味でも扱いきれん」ということで俳優としては呼ばなくなったのだけども、たまに、本当にごくたまに共に奇想天外な企画(決して演劇を一緒に作りたいタイプではない、あくまで奇想天外な企画)を創作すると堪らなく面白いので、今回彼女の生前葬を企画するのはとてもワクワクしています。 彼女はかなり危なかった自殺未遂もしていていつ死ぬかわからん人です。僕と彼女は鬱仲間ですが、僕の鬱は原因がはっきりしすぎてるのでそれが解決したため今は寛解し、今は死ぬ可能性はないわけですが、彼女は原因が漠然としているため根本的な解決にはならず本当にいつ死ぬかわからん。じゃあ、生前葬なんかしたらますます現世に悔いがなくなった余計死ぬ可能性が高まるだろって心配されるかもしれません。 それに関しては死生観などにも関わるのでとても難しいです。僕は彼女のことが好きだし、会って話すと楽しいから「彼女には死んでほしくない」しかし、僕の「彼女が死んでほしくない思い」より彼女の「死にたさ」の方が絶対上だと思うんですね。そりゃ、好きだし会って話すと楽しいが、恋人なわけではないし、しょっちゅう会うわけでもない、たまに会うだけの人だ。僕が彼女に会って楽しい時間を過ごすなんてのは1年のうちほんのわずかな時間でしかない。彼女も僕と会ってる時間は楽しんでくれてると思うし、他の人と楽しい時間を過ごしてる時だってそれなりにある。しかし、大半の時間は、一人で鬱で苦しんでるわけで、僕がわずかな時間を楽しむためだけに彼女に生きていてくれというのは、ワガママだなと思うわけです。 ただ、一方て「じゃあ死んでいいよ」というのも言いたくはないし、そもそも大した友人でもない僕が許可したり不許可にしたりすることでもないし。と、いうことで9月27日に生前葬を良いものをするという形で、良い時間を過ごせたらなと思います。それでこの先お互い思ったより長生きしたら、またなんかすればいいだけですし、せっかくよくわかんないイベントがあるあの日に、最高にロックで有効な時間を過ごせるアイディアを出せたことをとても嬉しく思っています。 皆様もぜひこのご案内場に、「出席か欠席か」に○をつけてSNSにあげてください。コンセプチュアリーアートとして、宗岡さんに会ったことがない人も積極的にSNSにあげるってのを推奨します。 ぜひご参加お待ちしております。弔電もお待ちしてます。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ