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毛利輝元(おぼっちゃま武将) 

2022年03月28日 外部ブログ記事
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?毛利輝元(おぼっちゃま武将) ☆徳川の世が終わると考えていた武将 ☆元就の器量を受け継がず「練れてない」お坊ちゃま ☆豊臣秀頼の勝利を睨んで佐野道可事件を起こした?輝元「毛利領は安泰」と読み違えて ☆美濃国・関ヶ原での戦いが終わった後も ☆徳川家康は大坂城の毛利輝元の動向に頭を悩ませていた *輝元が西軍の残存部隊を城内に迎え *豊臣秀頼を擁して籠城戦を展開したら面倒である *福島正則ら豊臣恩顧の大名は、秀頼と正面切っては戦えまい *その場合、東軍の勝利に不安が生じる ☆家康は、黒田長政と福島正則に、輝元へ書状を届けさせた *書状より、輝元は「毛利家の領土は安堵された」と読み城を出た *家康は直ちに大坂城に入って勝利を確定させた *家康は、論功行賞に取りかかり、毛利家の領地没収を示唆された *吉川広家らの必死の嘆願があって、防長2ケ国の大名として生き残る *文意を勝手に読み替えたのは、輝元なのだ ☆輝元は「練れてない人」だからこそ、書状の真意を測れなかった ☆毛利輝元は毛利隆元の嫡男 *父が亡くなると、祖父の元就の補佐を受け、11歳で毛利家の当主となる?輝元は、2人の叔父に懸命に支えられていた ☆優秀な2人の叔父が懸命に、「練れてない」お坊ちゃまを補佐した ☆豊臣政権下毛利家は120万石に及ぶ大きな領地 *石見銀山の経済力、豊臣五大老に2人(輝元と隆景)を送り込む ☆関ヶ原の戦いにおいて輝元は西側の総大将につく愚挙を犯した *海千山千の家康と、お坊ちゃま自身の力量の差が認識できず ☆領地は大きく削られてしまった ☆輝元はこれを屈辱のシンボルと見なしていなかった *領地を削られても大名として生き残れたこと *切腹を命じられなかったことを、輝元は心から喜んでいる?豊臣方に軍資金と兵糧を送る ☆輝元は、腹が据わらずに、佐野道可事件を引き起こす ☆豊臣が滅びた大坂の陣 *戦う前から勝敗は決まっていた *残存した豊臣恩顧の大名の中で、大坂方に参じた者は誰一人いない *あの福島正則ですら動けず、豊臣秀頼の勝利などあり得なかった ☆輝元はそう考えなかった *徳川の世が終わるかもと、都合の良い夢を見た ☆毛利家の一族の内藤元盛に佐野道可という別名を名乗らせ *軍資金と兵糧をもたせて大坂城に入らせた *豊臣が勝ったときに備えたのである *輝元は徳川滅亡にに賭けたが賭けに敗れた ☆大坂の落城後、道可の身柄を押さえ、彼は自害した *輝元は、事情を知らないとした道可の2人の男子にも自害を強いた *毛利の謀反を詮索されぬための措置である ☆吉川広家は、この事件を知って激怒し、愛想が尽きたのだろう                     (敬称略)                                     ?知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載?出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します?私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います?投資は、自己責任、自己満足、自己判断で?詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください?出典、『THEMIS3月号』毛利輝元(おぼっちゃま武将)(ネットより画像引用)

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