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「権門体制論」と「東国国家論」3 

2021年09月29日 外部ブログ記事
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?「権門体制論」と「東国国家論」3 ☆「日本の中世にひとつの国家があった」と考えるのは難しい?将軍は天皇に任命するのは「建前」に過ぎない ☆中世は天皇が将軍を任命するという行為が行われていた *「天皇が将軍を任命する」のは、あくまで建前だ ☆幕府は「承久の乱」幕府は後鳥羽上皇に加担した理由で *仲恭天皇を、無理やり皇位から引きずり降ろした *仲恭天皇は、明治時代まで正式な天皇としては数えられていない ☆仲恭天皇の存在を通じて分かるのは *「中世の幕府は、軍事力で天皇を否定することができた」?幕府によって即位を阻止された忠成王 ☆朝廷は皇位継承も幕府にお伺いを立てていた ☆朝廷は、承久の乱以降、次の天皇を必ず幕府に確認するようになった *鎌倉幕府は、朝廷のお計らいの通りにと答えていた ☆例外もある *四条天皇の跡継ぎ、後鳥羽上皇の孫1人である忠成王という人物 *幕府は「後鳥羽上皇の嫡流の皇位への復活は許さん」と反発する *結果、同じ後鳥羽上皇の孫ながら嫡流ではない邦仁王 *後嵯峨天皇として皇位を継いだ ☆建前上は、天皇は将軍を任命するように見える *実際は、次の将軍を天皇が決めることはできない ☆本質をみれば、権門体制論に矛盾がある?「武士の政権」が、西ではなく東に誕生した理由 ☆「日本の歴史は西高東低である」 *中世の東国はいろいろな面で遅れを取る辺境の地 *西のほうが、経済や文化などさまざまな面で進んでいた ☆西は、文化度も高くて栄えており、東は遅れた田舎であった ☆田舎である東国の鎌倉に幕府が誕生した理由 *京都に拠点を持った平清盛は武士による政権作りに失敗した (朝廷は強靭で、政権は瓦解した) *平家の失敗の原因を知っていた源頼朝 *同じ過ちを繰り返さぬために、東国鎌倉に政権を作る ☆鎌倉の利点は、京都の影響をダイレクトに受けない *田舎の関東は、朝廷から目を付けられずに、源氏政権を運営できた ☆鎌倉幕府の成立 *西の朝廷から敵と認定されなかった証拠 *幕府は朝廷から干渉を受けていない、独立した別の政権?中世の日本は、「1つの国」ではなかった ☆日本を一つにしたのは、豊臣秀吉の全国統一以降 *日本がどこの地域でも同じように生活する状況が生まれた ☆全国統一以前は、税金の額や単位すらも土地によつて違っていた *税金さえ統一されていない ☆「中世にひとつの国家があった」と考えるのは難しい *関東にある鎌倉幕府は京都の朝廷とは違う *平泉の奥州藤原政権も全く違う権力体です ☆当時の日本には三つの国があったと言っても過言ではない *権門体制論は、成立しない                        (敬称略)?知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載?出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します?私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います?詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください?出典、『日本史の論点』「権門体制論」と「東国国家論」3(ネットより画像引用)

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