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「権門体制論」と「東国国家論」2 

2021年09月28日 外部ブログ記事
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?「権門体制論」と「東国国家論」2?西の朝廷に東の幕府 ☆二つの不干渉な勢力を指摘した「東国国家論」 *中世には、東には鎌倉幕府があり、西には朝廷があった *東の幕府のトツプは将軍でその下に武士がいる *西の朝廷のトップは天皇であり、その下に貴族が組織されていた *「両者はお互いが相互不干渉だった」と考える ☆「東国国家論」と「権門体制論」の違い ☆権門体制論 *天皇は王家なので、その時代のトップの地位に君臨している *王家を支える武家のトツプが将軍で、天皇は将軍よりも上位の存在 *将軍は、武士たちを率いて、天皇を支える軍事指揮官だと考える *公家も武家も寺家も助け合い、「相互補完」と説かれている ☆東国国家論 *朝廷と幕府は「相互不干渉」であるとの考え?「権門体制論」が「東国国家論」より支持される四つの理由 ☆中世国家の考え方についてはこの二つの論が提示されている ☆権門体制論のほうがはるかに支持者が多い4つ理由 ☆一つ目は、天皇と将軍の位置関係 *将軍を任命するのは天皇、将軍が天皇を任命するわけではない *天皇が上で、将軍が下という体制を考える ☆二つ目の理由は、朝廷と幕府の関係性 *権門体制論の中核をなす「相互補完」 (一つの集団が、王家を支えるのはイメージしやすい) *東国国家論が掲げる「相互不干渉」 (関東の幕府と関西の朝廷という二つの相力が並存する) (お互いが不干渉でいられるわけがないと感じる人が多い) ☆三つ目は、寺家の位置づけ *興福寺を、延暦寺など、強力な僧兵を擁する寺家が存在した *寺は、自分たちに不満がある際は僧兵を繰り出す *京都に向かってデモを行い、朝廷はその対応に頭を抱えた *中世の朝廷は、 一年中、何かしらの祈祷を行っていた *その儀式には、必ず寺家の力が必要だった *権門体制論が提唱される以前 (お寺の勢力を社会のどこに位置付けていいのか不明だった) *権門体制論では、その寺家を、公家、武家と並ぶ勢力として (明瞭な位置づけを与えた) *東国国家論は、幕府と武士、朝廷と貴族については触れている (お寺の位置づけは触れていない) ☆四つ目の理由は、論文の書きやすさ *中世に関する卒業論文を書く場合 *権門体制論を用いると非常に叙述がしやすくなる?日本の中世には、「国家」があったのか? ☆権門体制論を受け入れると、メリットがたくさんある *その為、権門体制論は、人気が高い ☆中世に本当に国家があったのか? *筆者は、中世国家の存在自体を検証せず *国家は存在したという前提から始まる権門体制論に疑問を感じる ☆東国国家論もブラッシュアツプする必要がある ☆「当為と実情」の視点から、中世をとらえ直すのが必要                        (敬称略)?知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載?出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します?私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います?詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください?出典、『日本史の論点』「権門体制論」と「東国国家論」2(ネットより画像引用)

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