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日本の歴史を動かした「闇の法力」8(謙信と信玄&信長) 

2020年11月20日 外部ブログ記事
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?密教と闇の日本史(戦国・近世編)1(謙信と信玄&信長)?水遠のライバル上杉謙信と武田信玄の「呪法合戦」 ☆戦国乱世を生きた武将たちはみな密教の力を当てにする *おかかえの密教僧がいた ☆戦国時代は、大呪術合戦の時代だった ☆上杉謙信と武田信玄どちらが天下をとっても不思議なかった *あまりに両者の力が拮抗していた *川中島4度の激闘でも決着がつかず *そのうちに若い織田信長や徳川家康らの台頭を許してしまった ☆謙信、信玄というのは法名、上杉輝虎、武田晴信という名 *俗名を捨てて仏に帰依し出家した ☆謙信、信玄は、本気で呪力を獲得しようとしていた?上杉謙信 ☆出陣が決まると、敵将を調伏するための護摩を焚いた ☆謙信がつねに奉じていたのは軍神の毘沙門天 *上杉軍の旗指物に「毘」の一字が染め抜かれている ☆生涯独身をつらぬいた謙信 *伝法灌頂を受け、真言宗の阿闍梨(現在より高位)になっている ☆みずから毘沙門天の化身と称す?武田信玄 ☆最初は禅宗で得度した武田信玄 ☆謙信の影響力で天台宗に接近した *出陣に際しては多数の密教僧を同道させた *ありとあらゆる神仏に勝利を祈願し、敵将呪誼の祈祷を行なった ☆信玄は、仏師に自分の姿を彫刻させた *すさまじい形相で不動明王さながらの像になっていた *信玄は、これを正式に不動明王像とした ☆謙信の毘沙門天に対抗する、強力な本尊像の誕生 *信玄生き写しの武田不動、今も山梨県甲州市の恵林寺にある ☆謙信と信玄、双方ともに戦場ではほぼ無敗を誇った *信玄は天下とりの途上で病に倒れた *謙信も上洛へ向けての遠征のさなか脳溢血で急死した?織田信長と宗教 ☆謙信や信玄に限らず、この時代の武将たち *神仏や呪術に対して、畏れに近い感情を抱いていた *例外は、神も仏も畏れぬ男織田信長だった ☆信長は、宗教そのものが嫌いだったわけではない *キリスト教の宣教師たちを相手に宗教の話を聞き出していた (霊魂・天地創造の話など) *仏教や神道の宇宙観についても議論している ☆信長は、俗化し権力欲におぼれた坊主どもが嫌いだった?「第六天魔王の力」で天下に君臨した織田信長 ☆信長は天下統一を目前に、幻の城、安土城を建設する *安土山の頂上にそびえていた7層からなる城 *ふもとには”そう見寺”がつくられ、住職は密教僧だった *寺には、さまざまな仏像が、安置されていたらしい ☆安土城は、仏教の世界観において”須弥山”を模して建てられた ☆信長は、信玄にあてた書状で「第六天魔王信長」と名のっていた ☆第六天魔王とは *須弥山より上空、弥勒菩薩が待機する兜率天よりもさらに上 *天界である他化自在天(第六天)にいる魔王 *形がある物質世界において最高位の存在 ☆信長は、自分を”この世の帝王”になぞらえている ☆信長は、須弥山たる安土城で *みずからを帝王に変成させるための秘儀を実践していたのでは                  (敬称略)?知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載?出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します?私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います?詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください?出典、『眠れないほどおもしろい「密教」の謎』日本の歴史を動かした「闇の法力」8(謙信と信玄&信長)(『眠れないほどおもしろい「密教」の謎』記事、ネットより画像引用)

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