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秀逸な映像作品。NHK・ETV特集「隠された毒ガス兵器」 

2020年09月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



12日夜11時にオンエアーされたNHK・ETV特集「隠された毒ガス兵器」
陸軍科学研究所と第六技術研究所を行幸する天皇裕仁の写真と現在の新宿区百人町3丁目を俯瞰する映像のオープニング。「地図から消された島」大久野島の陸軍忠海製造所に働いていた96歳の元工員は、毒ガス液に触れて国から僅かばかりの障害手当を受給してる。毒ガスを製造した体験を小中学生たちに証言活動をしているが、小学生から「責任」について質問され、愕然としたと歩く姿の大久野島でのエンディング。日本ジャーリスト会議の来年度JCJ大賞にノミネートされるであろう秀逸な映像作品であった。
陸軍科学研究所と第六技術研究所を行幸する天皇裕仁

全編を通して毒ガス問題を解説していたのが、中央大学名誉教授吉見義明先生である。中央大学八王子キャンパスの吉見研究室に伺ったことがあった。岩波書店刊「毒ガス戦と日本軍」には、連合国軍が日本本土上陸「ダンフォール作戦」で、45年11月1日南九州上陸作戦「オリンピック作戦」、46年1月に関東地方上陸作戦「コロネット作戦」に於いて毒ガス弾(剤)使用の計画があることが記述されている。東京裁判で、アメリカは対ソ戦略から毒ガスの戦争犯罪を訴追しないように国際検事団に働きかけたと吉見教授は語っていたが始めて知る事実だった。靖国神社・遊就館展示室14「本土防衛作戦」の「本土上陸作戦地図」の前では、連合軍の毒ガス使用計画があったことを説明していた。(但し、7月1日から館内のガイドは不可となった)
「毒ガス展」のパンフレットから




南九州上陸の「オリンピック作戦」

九十九里浜と湘南海岸に上陸する「コロネット作戦」

毒ガス被害者のために20年間も活動されてきた、南典男弁護士も発言していた。日本の戦争責任センター刊「季刊戦争責任研究」65号に投稿した「毒ガス裁判と毒ガス被害者を支える人々の系譜」をエントリーしたい。
弁護士南典男さん



?はじめに
? 東中野修道著「『南京虐殺』の徹底検証」の中で、ニセ被害者扱いされたとして南京事件生存者の夏淑琴氏が、著者と出版社を名誉毀損で訴えた裁判で、最高裁は2009年2月5日二審同様原告側の勝訴の判決を下した。夏淑琴氏の勝訴を記念する集会「夏淑琴さん名誉毀損裁判大勝利記念集会」が南京への道・史実を守る会および夏淑琴氏名誉毀損事件弁護団の共催で7月5日に東京江東区豊洲文化センターで開催された。この集会では中国人権発展基金会と中国全国律師(弁護士)協会からの感謝状贈呈式もあった。? 一方、5月27日、?棄毒ガス?砲弾被害事件第一次、第二次訴訟について、最裁判所から上告を棄却するとの決定がされた。最裁が、被害者の訴えを一顧だにせず冷たく門前払いとしたことが残念でならない。? 柬中野という歴史修正派学者を被告とする訴訟には中国政府の威信にかけても勝利したという態度が見受けられるが、日本政府を被告とする遺棄毒ガス中国人被害者の訴訟には日中両国の外交問題が背景にあるように見えるのは筆者だけであろうか。? 【注】日本軍毒ガス・砲弾?棄被害賠償請求事件第一次訴訟。1996年12月9日、13名(遺棄毒ガス負傷者6名、遺棄毒ガス死亡者の遺族1名、砲弾負傷者1名、砲弾死亡者の遺族5名)が提訴。被害者一人につき2,000万円を請求。同第二次訴訟。1997年10月16日、5名(遺棄毒ガス負傷者4名、砲弾負傷者1名)が提訴。被害者一人につき2,000万円)但し、二人については1,000万円)を請求。??? 一、最高裁は上告棄却


? 遺棄毒ガス・砲弾被害賠償請求事件弁護団は6月10日「日本政府は、被害者らに賠償し、さらに中国国内における旧日本軍による遺棄毒ガス兵器被害者への医療支援、生活支援を含む被害者全体の救済を一日も早く実現すべきであり、私たちは引き続き被害救済問題の法的?政治的?道義的な解決に向けて全力で取り組んでいく」との声明を発表した。裁判経過を説明するためにも弁護団声明全文と遺棄毒ガス被害者の共同支援団体である「遺棄化学兵器問題の解決をめざす会」の抗議文全文を掲載したい。? ? 本年5月26日、最高裁判所第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は、上告人兼申立人(一審原告)らが、日本政府に対し、旧日本軍が中国に遺棄してきた毒ガス・砲弾の被害による損害賠償を請求していた事件(一次訴訟、二次訴訟)の上告審で、同人らの上告を棄却する不当な決定を下した。? ? 一次、二次訴訟とも、地裁及び高裁のいずれの段階においても、大量の遺棄毒ガス兵器がいずれも日本軍のものであること、?棄毒ガス兵器は、旧日本軍が川に投棄しあるいは地中に埋設するなどの方法により?棄?隠匿したものであることが明確に認定され、本件各毒ガス兵器について、ソ連軍あるいは国民党軍のものであるなどとする国の主張は、証拠に基づきいずれも排斥されていた。また、被害者らが、戦後、これらの遺棄毒ガス兵器が発見される過程で重篤な被害を受け、現在まで日々進行する症状に苦しんでいることも明確に認定されていた。にもかかわらず、原審判決は、毒ガス兵器を大量かつ広範囲に遺棄・隠匿したがために、遺棄・隠匿した場所を特定できず、事故を未然に防ぐことが出来なかった等として、結果回避可能性や?件関係を否定する極めて常識に反する判決であった。私たちはこの誤りは必ず最裁において是正されるものと確信していたところであり、今回の不当な決定を容認することは出来ない。他方、一次訴訟の原審判決では、「総合的政策判断の下に、全体的かつ公平な被害救済措置が策定されることが望まれるJとの異例の付言が付けられている。すなわち、化学兵器禁止条約の批准を待つまでもなく、わが国が、?棄兵器に関する情報を収集した上で、中国政府に対して、?棄兵器に関する調査や回収の申出をすること、また、情報を提供することは「国家としての責務である」と述べた上、上記實務を果してもこれによって被害の発生を未然に防止できる可能性が少ないとか、すでに中国政府が遺棄毒ガス兵器の調査回収を行なっているなどの理由で、「情報の収集やその提供を真摯に行なわないなどということは、責任ある国家の姿勢として許されない」とし、本件毒ガス兵器の被害者や家族が現在に至るまで全く何らの補償もおこなわれていないことを指摘した上、本件毒ガス被害者を補償しないことは「正義にかなったものとは考えられない」として、「全体的かつ公平な被害救済措置の策定を望む」としている。加えて、日本が化学兵器禁止条約を批准し日中間で?棄化学兵器処理について覚書を交わした後に発生したチチハル敦化の事故についての訴訟も係属中である。また何より、日本政府による遺棄化学兵器の廃棄処理が終了しない以上、近い将来同様の被害が繰り返される可能性が非常に高く、この問題の解決は避けて通れない。日本政府は、被害者らに賠償し、さらに中国国内における旧日本軍による遺棄毒ガス兵器被害者への医療支援、生活支援を含む被害者全体の救済を一日も早く実現すべきであり、私たちは引き続き被害救済問題の法的・政治的?道義的な解決に向けて全力で取り組んでいく。2009年6月10日遺棄毒ガス?砲弾被害賠償請求事件弁護団最高裁判所は5月26日、旧日本軍が遺棄した毒ガスで被害にあった中国人が日本政府を訴えていた訴訟で上告を棄却した。一片の紙片で代理人に通告されたものは三行半である。「単なる法令違反だから棄却する」というのである。最高裁判所は人権の砦としての役割を担っている。真につらい体験をした人の側にたつのが裁判所である。最高峰にたつはずの最高裁が「法令違反」は問わない、というのでは話しにならない。この訴訟は1997年に提訴された。事件はそれをさかのぼること20年以上のものが多い。1974年、中国黒竜江省ジャムス市の松花江でしゅんせつ作業をしていた李臣さんはひきあげたドラム缶の毒ガスを浴びた。皮膚がびらんし、呼吸困難にもおちいって、長い入院生活のあと、現在も症状は続いている。1986年、牡丹江の工事現場で毒ガス弾を掘り出した仲江さんは視神経をやられ、今でも光に対応するのが難しい状態である。1986年チチハル市富拉?基地区のエ事現場で毒ガス弾を掘り出した李国強さん、1950年黒竜江師範専科大学で鑑定を依頼された毒ガスを吸ってしまった崔英勲さん、1976年ハルピン郊外の拝泉県龍泉鎖で古い砲弾を利用しょうとしたところ中から液体が出てきて、それを浴びた張岩さんなどは、このことが原因で仕事を失っている。裁判の中で、被害にあった毒ガス弾は旧日本軍のものであることは国も認めている。一次訴訟の東京地裁判決は、原告の主張を全面的に認めて、国に賠償命令をだしたのである。しかし、その後一次・二次訴訟とも高裁判決は「どこに捨てたか特定できないし、中国政府に依頼しても被害を防げる可能性は少ないので」国には?任はない、という一般的には納得できない理由で原告らの請求を退けてしまつた。第一次訴訟の最高裁判決は原告の主張をしりぞけたものの「本件毒ガス兵器などによる被害者やその遺族に対して、現在に至るも全く何らの補償も行われていないことが認められる。 これらの化学兵器が人類の良心に反し、文明世界の世論の正当な非難に耐えないものであることを確認するものであること、毒ガス兵器などによる生命、身体に対する被害が極めて重篤なものであることを考慮すると、・・・本件毒ガス事故の被害者が被った被害を補償の埒外に置くことが正義にかなったものとは考えられない。日本国政府により、中国に遺棄されていることを認めている毒ガス兵器によって現に生じ、又は将来生ずるおそれのある事故に対する補償について、総合的政策判断の下、全体的かつ公平な被害救済措置が策定されることが望まれる」とまとめで書いた。最高裁はここの文言を最高裁は無視してしまった。東京高裁の意志を無視したのである。? ? われわれは満身の怒りをこめて、今回の決定に抗議するものである。? ? 2009年6月10日? ? ? ? 遺棄化学兵器問題の解決をめざす会、中国人戦争被害者の要求を支える会、ABC企画委員会、毒ガス問題を考える会、チチハル八?四被害者を支援する会、周くん・劉くんを応援する会、化学兵器CAREみらい基金? 『季刊戦争責任研究』第四二号(2003年冬季号)に南典男弁護士が遺棄毒ガス裁判の意義と被害者救済の政治解決とその展望について寄稿している。? 筆者は「遺棄化学兵器問題の解決をめざす会」という共同行動団体に結集している「中国人戦争被害者の要求を支える会」「ABC企画委員会」「毒ガス問題を考える会」「チチハル八?四被害者を支援する会」「周くん・劉くんを応援する会」「化学兵器CAREみらい基金」の支援運動について寄稿したいと思う。
毒ガス事件弁護団の大久野島研修会


??? 二、二〇年前の「人骨」発見が契機

91年8月に訪中した市民調査団(団長越田稜氏)


? 1989年7月22日、新宿区戸山の国立予防衛生研究所(現感染症研究所)建設現場から、ほとんどが頭骨と大腿骨という多数の奇妙な「人骨」が発見された。この土地は元々陸軍軍医学校があった土地であった。專門家や多くの市民は、発見当初から「七三一部隊」など戦時中の医学犯罪の証拠ではないかと疑いをもち、新宿区もそれらの声に答えて真相の究明を約束した。そして、区長、区議会が一体となって、厚生省に調査を要求、さらに独自鑑定に取り組んだ。筆者も当初から新宿区議会議員(日本共産党所属)として係ってきた。そして中国東北部を訪れ日本の侵略と加害の実態を知り、毒ガス被害者の肉体の痛み、生活の苦しみを目の当たりにすることによって自分のものとして学び身体に刻んできた。だからこそ現在の自分があるのである。? 「関東軍第七三一部隊」は、凍傷実験や毒ガスの致死実験、異種血液の注入、伝染病の感染実験など、考えられるかぎりの残虐な人体実験を行い、大量殺戮兵器として国際法上使用が禁止されていた、細菌などを使った生物兵器や、毒ガス兵器の研究・開発を行っていたことで有名である。「七三一部隊」は、中国全土やシンガポールにまで展開していた防疫給水部のなかの一部隊に過ぎない。これらの統括機関であった防疫研究室は、軍医学校の防疫部に設立され、大学の医学部など、当時の医学アカデミズムと「七三一部隊」などをつなぐ役割を果たしていた。? 人骨が発見されたとき、この問題に関心を抱いたのは日本の市民だけではなかった。その当時、遠く中国の地では、少なくとも3,000名はいたと言われる「七三一部隊」の犠牲者のうち、59名が確認されていた。その遺族のうち、夫を失った敬蘭芝さんと、父を失った張可偉さん、張可達さん兄弟は、91年8月に訪中した市民調査団(団長越田稜氏)に、日本の外務省と新宿区に対して、「人骨」の保存と調査、身元が判明した場合の返還と補償を求めた「申立書」を預けた。また調査を行わないことは遺族の人権を侵害することだとして、日弁連人権擁護委員会にも申立が行われ、日弁連は、これを受けて調査部会を設置、新宿区長、内閣総理大臣、厚生大臣に調査と保存を求める要望書を提出した。? 90年1月27日に行われた「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する住民の集い」をきっかけに、当日の講演者常石敬一氏(神奈川大学教授)を代表に迎え、同年4月3日、新宿区民や研究者等が集まり、「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」(通称「人骨の会」)が設立された。? 行政と日弁連への「申立書」を日本語に翻訳し、代理人として提出したのが、現在、中国人戦争被害者賠償請求事件弁護団幹事長として活躍されている南典男弁護士である。? 市民調査団に当時、北京市の中国人民抗日戦争祈念館で開催していた「七三一部隊展」の展示パネルや史資料を日本に貸し出すから開催しないかと同館から提案があった。帰国したメンバー等がよびかけ人となって「七三一部隊展実行委員会」(代表森川金寿氏、常石敬一氏、松谷みよ子氏、事務局長渡辺登氏)が結成され、92年7月、新宿を皮切りに「七三一部隊展」は全国巡回活動を開始したのである。??? 三、七三一展・毒ガス展実行委貝会からABC企画委員会へ
? この活動を通じて、旧日本軍が中国戦線で毒ガス弾を実戦使用した事実が明らかになった。「戦後五〇年・国際シンポジウム」が、中国のハルピン市で95年7月31日から8月2日までの三日間にわたって開かれた。毒ガス問題が独立の分科会となり、「旧日本軍が遺棄した毒ガス弾が中国各地で発見され、人的被害が拡大中だ。実態究明は細菌・毒ガス戦などの全体像を明らかにすることが重要だ(吉見義明中央大教授)など旧日本軍が中国各地に遺棄した化学兵器による住民の被害が多発していた事実が報告された。97年春には「化学兵器禁止条約」発効が確実となり、日本は(遺棄化学兵器を完全処理する貴務)を負うことなった・・・など。日本政府はもとより市民としても歴史的な事実を究明、学習・宣伝する重要性を痛感した。? 96年2月に「毒ガス展実行委員会」を結成、代表:遅塚令二氏、事務局長:梅靖三氏のもと広島・大久野島研究所とも連携して、毒ガス展パネル60枚を作成し、実物の毒ガス製造装置や日本軍文書、写真などを展示し国民に広く訴えるために9月に新宿から「毒ガス展」がスタートした。遅塚令二氏は今日「毒ガス展実行委員会」結成総会を迎えましたけれども、この「毒ガス展」をやっていこうじあないか、ということになった流れば「七三一部隊展」を全国展開していく中で、当然避けて通れないような形で毒ガス問題が出てきたわけですJと述べている。? 同会は、未完の戦後処理の一環として毒ガス兵器の歴史的検証を行い、日本政府の貴任を明確にするとともに、遺棄毒ガス兵器の処理と被害者に対する診療および補償の実現に努め、日中両国人民の友好と化学兵器の廃絶に寄与することを目的とした。また、事業として毒ガス展の開催、毒ガス兵器とその被害に関する研究会、講演会等の開催、毒ガス兵器による被害者の診療への協力、遺棄毒ガス兵器の処理と被害者への補償、医療援助を政府に求める、毒ガス兵器の調査と検証、化学兵器の解説図書、資料等の発行、会報の発行などとした。? 99年9月、七三一部隊展と毒ガス展の実行委員会をABC企画委員会(核兵器:A 生物兵器:B 化学兵器:C の頭文字をとった)に統合。代表代行:山辺悠喜子氏、事務局長:三嶋静夫氏、事務局次長:和田千代子氏の役員体制となったのである。「中国人戦争被害者の要求を支える会」には、95年12月の発足時からABC企画委員会は団体と個人加入し、運営委員として参画している。現在は中国ハルピン市平房区の「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」を世界逍産に登録させることや細菌戦と毒ガス戦による中国人被害者支援、加害の戦跡を訪ねる中国スタディーツアーなど旺盛な活動をしている。? この項はABC企画委員会事務局長三嶋静夫氏から提供して頂いた「七三一部隊展ニュース」「毒ガス展ニュース」「ABC企画ニュース」のバックナンバーを参照した。??? 四、中国人被害者の要求を支える会

?? 中国人戦争被害者賠償請求事件弁護団編の『砂上の障壁』に「会」の結成経過が詳細に述べられているので引用したい。? ? 「中国人戦後補償裁判弁護団は、家永教科書裁判支援全国連絡会、弁護士仲間、七三一部隊展実行委員会、韓国「慰安婦」問題に携わる支援者、法律家、作家、歴史学者、ジャーナリストなどに、中国人戦後補償裁判支援の賛同人となってもらえるよう呼びかけた。呼びかけ人には、家永三郎をはじめとする中国人戦争被害に見識のある各界の第一人者が担い、約500人の賛同人が集まった。1995年8月の七三一部隊・南京虐殺?無差別爆撃訴訟ならびに中国人「慰安婦」一次訴訟の訴えの提起とともに、支援団体を正式に結成することとなつた。しかし、団体の窓口たる事務局長の担い手がなかなか見つからず、検討の結果、弁護団員の一人である弁護士南典男が事務局長を引き受けた。? ? こうして、中国人戦後補償裁判を支援する名もなき市民グルーブは動きだした。まず問題となったのが、「会」の名称である。議論し尽くされた結果、会の名称は「裁判を支援する会」でも「原告を支援する会」でもなく、「中国人戦争被害者の要求を支える会」に決まった(略称「支える会」である)。裁判は、手段であって目的ではない。裁判を通じて果たすべき目的は、日本政府に、日本軍の非人道的行為により被害を受けた中国人戦争被害者に対し謝罪をさせ、その証としての賠償をさせること。と信頼関係を築くことにある。? 「中国人戦争被害者の要求を支える会」はさまざまな活動を繰り広げ、被害と旧日本軍の加害の事実を広げ、署名や集会、裁判傍聴などの活動を今日まで続けてきている。こうして現在「支える会」は、大谷猛夫事務局長のもと、会員3,000人以上の会へと発展している。? 「支える会」の会員には、様々な年代の人々がいるが、結成当時、戦争問題に関心を持ち中核を担い支援をする層として、若い世代は少数であった。しかし、主体的に参加する若いメンバは、徐々にではあるが増えていく。かつて「七三一部隊展」を主催した実行委貞会の若いメンバは「支える会」でも活躍した。??? ?五、毒ガス問題を考える会
02年3月8日。国際シンポジウム「毒ガスの完全廃絶を求めて」

? 「支える会」の中に遺棄毒ガス裁判を支援する独自の団体として「日本が残した毒ガス被害者を支える会」(事務局長:西本浩一氏)が発足した。会は裁判傍聴の他に01年11月10日に学習会「化学兵器って何」講師:常石敬一氏(神奈川大学教授)を皮切りに、以下のような活動をしてきた。「まだ戦争は終わっていない」毒ガス被害者の証言を聞く会講師:山口千三氏、奥山辰男氏(元相模海軍工廠毒ガス障害者)、金子安次氏(中国で毒ガス戦に参加した元日本軍兵士)、蘇向祥氏(中国人弁護士)学習会「ハルピン報告」毒ガス被害者に会ってきました 講師:松野誠也氏(毒ガス研究者?明治大学大学院後期博士課程)「まだ戦争は終わっていない」毒ガス被害者の証言を聞く会証言者:仲江さん(遺棄毒ガス弾被害者)、講師:三嶋静夫氏(ABC企画委員会務局長)、常石敬一氏(神奈川大学教授)学習会「まだ戦争は終わっていない」歩平さんのお話を聞く会講師:歩平氏(中国黒龍江省社会科学院副院長)、山辺悠喜子氏(元中国人民解放軍兵士?ABC企画遺棄毒ガス被害者の聞き取り調査)「まだ戦争は終わっていない」毒ガス被害者の証言を閧ュ会証言者:原告張岩さん、李国強さん(遺棄毒ガス弾被害者)、講師:吉見義明氏(中央大学教授)学習会「中国に毒ガスを捨てた証言を聞く会」講師:鈴木智博氏(元日本兵)学習会「戦後も続く戦争の被害」証言者:原告劉敏さん(遺棄砲弾被害者遺族)、講師:本多勝一氏(ジャーナリスト)、北川泰弘氏(地雷廃絶日本キャンペーン代表)学習会「一五年間の毒ガス取材記」大久野島。ハルビン、そして今後の課題講師:辰巳知二氏(共同通信外信部記者)大久野島スタディーツアー「地図から消された島」現地での学習会講師:村上初一氏(元大久野島毒ガス資料館長、元忠海製造所養成工毒ガス障害者)、行武正刀氏(元呉共済病院忠海分院長)、藤本安馬氏(元忠海製造所養成工?毒ガス障害者)、ガイド:山内正之氏(毒ガス島歴史研究所)? 02年10月、会の代表に矢口仁也氏が、事務局長に筆者が選任され、会の名称は「毒ガス問題を考え、旧日本軍の毒ガス被害者をサポートする会」(略称「毒ガス被害者をサポーする会」)に変更した。02年3月8日。国際シンポジウム「毒ガスの完全廃絶を求めて」場所:飯田橋?家の光会館証言者:奥山辰男氏(元相模海軍エ廠工員、毒ガス障害者)、仲江さん(原告、遺棄毒ガス弾被害者)、村上初一氏(元大久野島毒ガス資料館長元忠海製造所養成工。毒ガス障害者)、パネラー:常石敬一氏(神奈川大学教授)歩平氏(中国黒龍江省社会科学院副院長)、水島朝穂氏(早稲田大学教授)、吉見義明氏(中央大学教授)そして国際アピール「毒ガス兵器の完全廃棄を求めて」を採択した。学習会中国人毒ガス被害者勝訴に対する国の控訴理由書を批判する講師:藤澤整弁護士■04年6月29日?7月2日吉林省敦化市沙河沿屯に関東軍第一方面軍第五軍第一六野戦兵器廠元下士官二名の毒ガス遺棄現場調査に筆者が同行した。? 現在は通称名を「毒ガス被害者をサポ卜する会」から、「毒ガス問題を考える会」に変更している。??六、「チチハル八・四被害者を支援する会」


? 03年8月4日、中国黒竜江省チチハル市で旧日本軍の遺棄化学兵器により1名が死亡し、43名が負傷したチチハル八・四事件の被害者たちは日本政府に対し、謝罪、医療と生活の保障を求め交渉してきたが、日本政府が応じなかったため、やむなく07年1月25日、被害者ら(遺族を含む)48名は日本国を相手として国家賠償請求訴訟を提起し、6月6日に第一回口頭弁論が開かれた。「支援する会」はチチハルの現場へのスタディーツアーなどで若い人たちが裁判傍聴や集会の企画に参加している。チチハル事件被害者馮佳縁ちゃんとお母さんの白玉栄さんが来日した時に茨城県神栖市毒ガス被害者青塚美幸さん親子と共に国会内で記者会見する中で交流が深まっている。? 筆者は昨年の8月4日を期してウェブサイ卜「遺棄毒ガス問題ポータルサイト」を若い人たちに協力して貰って立ち上げた。???七、「化学兵器CAERみらい基金」


? チチハル事故の被害者を人道的に支援するために、「八・四チチハル毒ガス被害者人道支援基金」を立ち上げ、活動してきた。05年8月には一部の被害者の来日が実現し、市民との交流。国会議員との面会などの機会を持つことができた。? 一方、この基金とは別に、ドキュメント映画「苦い涙の大地から」(海南友子監督作品)を鑑賞した中国帰還者連絡会故三尾豊氏の家族から100万円のカンパがあり、「中国人毒ガス被害者の治療?用に充てて欲しいJというカンパの趣旨を確認して「中国人毒ガス被害者基金」として処理することにした。「八・四チチハル毒ガス被害者人道支援資金」は「中国毒ガス被害者基金」の活動目的に賛同し、情報を共有し、お互いに助け合いながら中国国内のすべての化学兵器の被害者をサポートする道を模索してきた。? 05年2月、化学兵器の被害者へのより強力な支援体制を敷くベく、二つの基金が発展的に合流し、共に被害者をサポートする「化学兵器CAREみらい基金」をつくることになった。代表には弁護士山田勝彦氏が選任され、事務局は支える会の隣に机を並べている。? 「化学兵器CAREみらい基金」では、支援(サポート)の対象を選択する方式を取っている。特にチチハル市の被害者への支援を希望される場合、「チチハルエィド会員」になってもらうと、寄付(会費)はチチハル市の被害者支援に活かされることになる。? 弁護団の全面解決要求の一つである「障害を受けた被害者に対し、医療ケア等の支援を行うこと」を目的に被害者の検診を行う一方、より多くの人にこの問題を知らせるための広報活動を行っている。また、被害者を経済的に困窮させている「働けないほどのだるさ」等の原因解明を目指して全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)の医師の協力を得て中国ハルピン市や国内で検診を行っている。? 「化学兵器CAREみらい基金」から出版された『ぼくは毒ガスの村で生まれた」は、遺棄化学兵器の問題について中高生向けにまとめた本であるが、この分野での第一人者である吉見義明が監修してくださったこともあり、遺棄化学兵器の問題についての入り口的な本にもなっている。中国での被害についてだけでなく、広島県大久野島の話など日本国内での戦後の被害の話もでてくる。???八、「周くん・劉くんを応援する会」


?04年7月におこった吉林省敦化市蓮花泡林場の「毒ガス事件」の被害者(土手で遊んでいた少年二人)があらたに日本国政府を相手に裁判をおこした。周桐くん、劉浩くんのふたりである。戦前、敦化市で生活していた人々の親睦団体「日本敦化会」の本田会長など支援者の輪も独自の広がりを見せている。5月の連休には「周くん・劉くんを応援する会」が主催したスタディーツアーには20名が参加し、少年と親たちと交流を深めてきた。?幸いに少年たちの毒ガス被害の症状は比較的軽度であったことが確認できてホッとしている。
? 九、さらなる支援団体と毒ガス研究家


? 「毒ガス島歴史研究所」は1996年4月28日、発足した。代表に大久野島毒ガス資料館の元館長村上初一氏がなり、毒ガス島の関係者の聞き取りを含め、大久野島の戦争加害の歴史を掘り起こし毒ガス問題を考えることで、私たち一人ひとりの戦争の被害と加害の両面を考えていくことを目的としている。? この研究所では過去の悲惨な歴史を二度と繰り返さないために毒ガス問題を調査?研究することを通して、戦争の被害加害の真実を広く伝える平和研究機関として平和と人権を守る運動、並びに大久野島の戦争遺跡の保存運動、平和学習ガイドに力を入れている。? 瀬戸内海に浮かぶ大久野島は陸軍忠海兵器製造所として毒ガスを製造してきたが、海軍の毒ガスエ場だった相模工廠(寒川町)や海軍技術研究所(平塚市)の実態を研究しているドキュメント映画プロデューサーの北宏一朗氏がいる。? 北氏は次のように語っている。f私は広島で生まれ、被爆しました。広島が戦時中どんな街だったのかを考えた時、そこには毒ガスの問題があり、朝鮮人が強制連行され三菱や軍事工場で働かされていた。この強制連行された人たちも被爆し、帰国して後も被爆で苦しんでいる。又、帰国途中、船が沈み亡くなつても何一つ補償されない。被害と加害、二つの問題を同時に考えていく必要が有ると思う。日本は戦後処理で二つ免責になった。一つが天皇で二つ目が毒ガス、細菌兵器に関わった人々です。私が拘ったのは、陸軍は確かに毒ガスを製造し使った、では海軍はどうだったのかということです。旧海軍の毒ガス問題はほとんど知られていない、知らされていないのです。? 海軍相模工廠跡地である、神奈川県寒川町一之宮の「さがみ縦貫道路」工事現場で、02年9月下旬、高架橋の下部構造物を建設するため地面を掘削中、地下約1メートルの場所から剌激臭とともに割れたビール瓶約10本が発見され(その後も発見されて総数800本以上となった)、中から漏れ出たイペリットガス。ルイサイトガスにより土木作業員こ1名が入院した。被害者たちは、当初、治癒したように言われたが、まだ症状は続いているようで、うち数人は重傷らしい。いずれにしても、被害者たちがどのような症状なのか、被害補償がされているかどうかなどの惰報がまったく開示されていないが、北氏は粘り強く被害者数人を粘り強く探しだした。現在は「化学兵器CAREみらい基金」と連携し、被害者たちの医療と労災の相談に応じている。
? 一〇、「遺棄事実論」と「関東軍軍事文献」の攻防


? 03年9月29日東京地裁は、日本軍毒ガス砲弾遺棄被害賠償請求事件第一次訴訟において砲弾で負傷した原告一人について請求額2,000万円のところを1,000万円としたほかは、原告全員に靖求通りの金額(被害者一人あたり2,000万円)を認めた極めて画期的な全面勝訴判決を言い渡した。? 筆者はこの年の7月に「毒ガス被害者をサポートする会」の公式ウエブサイトを立ち上げ、サイトの中に誰でもが自由に書き込みが出来る「掲示板」もアップした。当初は数件しか書き込みのなかった「掲示板」に原告の勝利判決があった翌々日からいわゆる「荒らし」といわれる「毒ガス弾は日本軍のものではない」「日本政府は?任はない」という誹謗?中傷の役稿が毎日数十通となった。調べてみると西村慎吾氏(当時衆議院議員)のウエブサイトの9月29日付「時事通信」に書かれているものと瓜二つの論調であった。『正論』06年6月号、水間政憲氏の「スクープ遺棄化学兵器は中国に引き渡されていた」という記事も同じ類であった。? 被告である日本政府の代理人は03年12月24日に控訴理由書を東京高裁に提出してきた。これまで政府代理人は「遺棄事実論」については一切訴訟の争点にしてこなかった。ところが提出された控訴理由書には「終戦前の満州地区の状況等」「ソ連参戦の経緯」「ソ連参戦から停戦に至るまでの関東軍の戦闘状況及び武装解除状況について」「関東軍の武装解除後の日本人のソ連移送及び送還等について」等々約70頁に及ぶ「関東軍史論」「日ソ戦論」を「戦史叢書関東軍」一冊で間に合うものを「参照し得る文献や?料等に基づき」とあれこれの軍事文献と挿入図でもって展開し、原告側の遺棄事実論に反駁をしてきたことは、戦争を知らない裁判官たちへの目くらましであった。彼らの言い分は「ソ連軍の突然の攻駿があったので毒ガス兵器を地中深く埋めて処理するなどの時間的余裕はなかったはずである」「兵士はソ連のシベリアに大多数が移送されていて、シベリア抑留者の中から約5万5000人もの死者が出ていることから本件毒ガス兵器の遣棄に関係したと想定される兵士が生存して帰国したか否かも証拠上不明である」等であるが、ひと言で言えば「捨てる時間がなかった」論であり「死人にロなし」論なのであった。? 及川信夫弁護士以外は戦後生まれでやはり戦争を知らない弁護士ばかりである。弁護団はこれまでも毒ガス問題の第一人者吉見義明氏の意見書などで軍事史的な証書を提出してきたが、被告側が防衛省防衛研究所戦史部などの資料提供から反駁してきたことに対抗するには少しは戦争のことを知っている年代の人間の出番であり、さらに協力する必要性を痛感した。筆者は早速、防研図書室や靖国神社偕行文庫に通い、敦化市大橋本部と沙河沿飛行場に毒ガス弾を遺棄したと証言している老兵士が所属する関東軍第一方面軍第五軍第一六野戦兵器廠の「部隊略歴」を収集。また関東軍直轄野戦兵器廠哈爾浜支廠の「部隊原簿」の中に「敗戦と共に瓦斯弾の消滅を図るも及ばず」という記述も発見できた。? 現在は市井の毒ガス問題研究家の北宏一朗氏とタッグを組み、チチハル事件と敦化事件に関する軍事史料の調査に全力を挙げているところである。??? おわりに
ハルビン市郊外の井戸に毒ガス弾を遺棄した元少年兵吉田義雄さん(開発されて井戸は見つからなかった)

? 『日中双方の毒ガス被害者が団結して日本政府の資任を追及し、正義を求めようではないか』。02年3月8日、東京・飯田橋の家の光会館に集まり、「毒ガスの完全廃絶を求めるj国際シンポジゥムで日本軍の遺棄毒ガス兵器による中国人被害者の仲江さんは、この言葉で証言を締めくくった。原告らと弁護団は、すべての日本軍逝棄毒ガス被害問題について以下のとおり全面的な解決を要求している。@ 中国国内における遺棄毒ガス兵器による事故被害者に対し、日本政府は?任を認め、真摯に謝罪すること。A 被害者らに対し補償を行うこと。B 障害を受けた被害者に対し、医療ケア等の支援を行ぅこと。C 遺棄毒ガス兵器による環境破壊に対し、誠実に対処すること。D 遺棄毒ガス兵器を速やかに撤去すること。E 日本における毒ガス兵器の製造、配備、使用の事実に関する情報の収集と公開に努め日本政府が實任を持って究明し、これを中国政府に伝えること。F 日本における毒ガス兵器の製造、配備、使用の事実を資料館の建設等の事業活動により未来に記憶すること。日本平和委員会の機関紙「平和新聞」09年新年号の畑田重夫氏との紙上対談で、元官房長官の野中既務氏は次のように語っている。(野中)このところ、被害者が来日すると、私の事務所に訪ねてくるんですよ。この前は、12歳の少女がやってきました。顔から体までずっと真っ赤に爛れている。その少女が、「私は白分の不注意で山に入ったので、そのことを恨もうとは思いません。でも悲しいのは、学校で同級生がr私に近づいたらうつるjといって差別するんです。それが一番耐えられない」といって、涙をこぼして泣くんですね。私は、戦争が終わって六三年も経っているのに、今もこういう若い人たちに大きな傷跡を残していることにとても心が痛みました。そして、こういう積み残された問題を、「民族の責任」として、一刻も早く解決しなければいけないと改めて強く思いました。? ? 保守政治家である野中氏の発言に見られるように日本の市民の中に、日本政府の謝罪と障害を受けた被害者に対し、医療ケア等の支援を行うことを要求する世論は高まっている。今号が発刊される頃には毒ガス問題の全面解決を実現する新しい政権が誕生していることを期待して筆をおく。? (はせがわじゅんいち毒ガス問題を考える会事務局長)

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