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ポツダム宣言受諾の条件は「天皇の国家統治の大権」しかしトルーマンは「天皇制を存続させてもよい」を削除した 

2020年08月06日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



萬世の為に太平を開くもーー天皇陛下の御聖断ーー(昭和46年8月10日東芝音楽工業発売)より
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「迫水久常の手記」(終戦時内閣書記官長)天皇の聖断で受諾した“ポツダム宣言”
この日の十時より最高戦争指導会議が開かれた。私は連絡のため一、二回会議場に入ったが会議は極めて沈欝な、黙りがちの会議であったように思う。午後一時、会議は 一応休憩し、首相が出てこられたので、私はその結果を伺うと、意見は二つにわかれた、一つは国体護持のみを条件としてポツダム宣言を受諾すべしというにあり、他の一つはさらに@占領はできるだけ小範囲に小兵力で、しかも短期間であること、A武装解除と、B戦犯処置は日本人の手にまかせることの三条件も付すべし、という意見とにわかれた、とのことであった。この会議の最中に第二回目の原爆が長崎に投ぜられたのである。
「保科善四郎の手記」(終戦時海軍省軍務局長)天皇の聖断で受諾した“ポツダム宣言”
こうして御聖断が下り、ポツダム宣言受諾の通報に対し、連合国の回答の中にあった「天皇および日本国政府は、連合軍司令官にSubject toする」という文句が、再び問題をひき起こした。すなわち天皇大権の保持について連合国側に再照会すべしとする陸軍の主張と、外相らの即時終戦説とが再対立し、ひいて八月十四日の第二回御前会議が開かれることになったのである。
「安倍源基の手記」(終戦時内務大臣)天皇陛下の御聖断で受諾したポツダム宣言
九日以来ほとんど連日にわたって閣議と最高戦争指導会議が開かれたが、この際ポツダム宣言を無条件に即時受諾して降伏すべしという意見と、保障占領、武装解除、戦犯処罰などについて若干の条件ないし希望を付すべしという意見が激しく対立した。しかし無条件派といえども、国体が否認されるのでは受諾するわけにはいかないという点においては、条件派と同様であった。結局、火花を散らすような激論の後、最高戦争指導会議における聖断に従い、十日政府は、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含していないという了解の下にポツダム宣言を受諾する」旨の意思表示を中立国を通じて連合国側に通達した。右に対する連合国側の回答は十二日政府に到達したが、回答をめぐつて再び議論は沸騰した。回答は国体護持について保障を与えていないから、再照会してこれを確認すべしという意見と、再照会すると終戦の機を失うから反対だという意見の二つに分かれたのである。私も再照会論者であったが、論議はともかく、陛下の御意思に従いこの際終戟となるのは必然だと確信していたので、十二日夜、水池警保局長の名をもって、「国体護持の条件で終戦になる見込みだから治安維持に万全を期せられたし」という趣旨の極秘電報を全国の地方長官に通達した。
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御前会議に出席した三人の手記に見られるように、ポツダム宣言受諾の条件は「天皇の国家統治の大権」であった。しかしトルーマン大統領とバーンズ国務長官が、グルー国務次官補が作成した原案から日本政府が受諾できないよう削除したことが「日ソ戦争への道」に記述がある。少し長文になるが、広島と長崎への「原爆投下」、満蒙開拓団の悲劇、シベリア抑留、千島列島軍事占領の「ソ連参戦」、そして玉音放送の「日本のいちばん長い日」である14日〜15日に、関連する歴史書なので転載します。


七月二六日のポツダム宣言 一九四五年五月にポツダム宣言案を作成したのは、日本をよく知っている元駐日大使ジョゼフ・グルーだったことを思い出していただきたい。グルーは、「無条件降伏」という表現から離れ、降伏後に日本の天皇制が維持されるとを日本の軍事・政治指導部に理解させれば、日本は降伏すると確信していた。日本の皇室、内閣、外務省、参謀本部のなかのムードをよく知っている米国の情報機関は、この考えを定期的に報告していた。 米国の軍指導部は、この案を熱烈に支持したが、これを五月に公表することは時宜を得ていないと考えた。なぜならば沖縄島では最終的な戦闘が行われており、このような呼びかけがでれば、日本はこれを米国の弱さの表れと見るにちがいないからである。グルーはトルーマンにこの文書を報告したが、トルーマンはポツダムで最終的決定を下すと述べた。そしてバーンズ国務長官は、ポツダムに向かうとき、自動車のなかで初めてグルーの手からポツダム宣言案を受け取った。 これらの劇的な日々に、米国にとって不幸であったのは、国務省のトップにいたのが、外交的な経験は全くないが、その代わりに大きな野心と自信を持ち、そのうえ好戦的な反ソ的見解を持つ人物であったことである。その人物とは米代表団がポツダムに向けて出発する数日前の七月三日に国務長官に任命されたバーンズその人である。トルーマン自身は対外政策の諸問題についてはあまり知らず、率先して最終的結論を下さないよう努めた。あれこれの外交政策上の提案に対する彼の通常の回答は、「スタッフと相談する必要がある」ということであった。一方、バーンズは、ハリマンやスチムソン、レギなどが不満を漏らしているように、対外政策の決定の立案から彼らをはずし、だれよりもトルーマンに近いことを利用して、大統領が下そうとする決定に決定的な影響を与えた。ポツダム宣言に関してはそのような事態が起こったのである。 ポツダムの米国代表団のなかに日本専門家がおらず、バーンズがスチムソンとグルーの意見を無視したために、バーンズ自身が専門家が作成した文書案を「改善」することになった。その結果、原文からは、宣言の本質をなす「妙味」が消えてしまった。 宣言案では、一方で壊滅的な破壊によって日本を脅しながらも、他方で、東京のムードを考慮して、天皇制を存続させてもよいという主張が明確に述べられている。ところがバーンズは、脅す部分だけを残し、日本人が全く魅力を感じない程度まで「飴」の部分をなくしてしまった。例えば、ポッダム宣言第ーニ条には、「統治形態に関しては、日本国民自らの意思によって決定される」と述べられている。このとき、バーンズは、「かかる政府が決して再び侵略を?向しないことが全世界に示されるならば、現皇室下での立憲君主制を保持しうる」という実によく理解できる語句を削ってしまったのである。 後に、日本の軍部は、この一節からは、降伏後に日本の天皇制が残るかどうか明らかではないと表明し、それゆえに戦争の継続を主張し続けた。 ポッダム宣言では、最後通牒の脅しの部分を相当強めることができた原子爆弾には言及されなかった。 日本の都市を原爆攻撃する大体の日が決まった後の七月二四日、米国は、?介石とチャーチルの署名を求めてポッダム宣言の原文を手渡した。七月二五日、チャーチルはトルーマンに、提案された案に同意すると伝えた。翌日、?介石から前向きの回答がきた。七月二六日の夕方、ポッダム宣言はラジオ放送で公表された。翌朝、全世界の新聞がポッダム宣言を掲載した。ソ連側は、ポッダム宣言が公表のために手渡された後で、その内容を知った。ソ連側が宣言の内容を知ったのは七月二六日の夕方である。ヴャチヱスラフ・モロトフは、自分の通訳官を通じて宣言の公表を二日間遅らせようとした。しかしバーンズは、もう手遅れだと答えた。宣言は新聞記者に渡されていたのである。 バーンズ自身は、この出来事を次のように書いている。「ポッダムでわれわれが(原子)爆弾の実験成功について知ると、チャーチルは(ロンドンに)出発する前に文書を訂正した。大統領も若干の変更を加えた。案は、承認を求めるために?介石に送られた。七月二六日、宣言は世論の所有物となった。宣言では原子爆弾についての警浩、天皇の地位に関する指摘はなかった。しかし国体に関する最終的決定は日本国民にゆだねられると述べられてい」  宣言は「日本に対する警告」であった。 七月二六日の夕方、宣言は外交チャンネルを通じて配付され、同時にプレスに渡された。「親切心から私は、モロトフに知らせるためにモロトフの宿舍に宣言のコピーを送った。 彼の通訳官は、モロトフの指示により、公表を数日間延ばすよう要請した。翌日、モロトフとの会談で私は彼に、ソ連政府が日本と戦争状態にないときに、宣言についてソ連と協議するのは不適当であると説明した。モロトフは、これに答えなかったが、彼は、何らかの変更を加えるつもりはないと述べた。モロトフは、自分と協議すべきであったと考えていた」 実際、モロトフ、いやそれ以上にスターリンはがっかりしていた。何しろ彼は、朝から晩まで一緒になってトルーマンやバーンズとさまざまな軍事政治問題について話し合っていたのである。しかしトルーマンとバーンズは、原爆の情報と同様、ソ連代表団に宣言を秘密にし、これに合意を求めるまでもないと考えていた。ソ連の指導者から見れば、米国がソ連なしに済ませ、極東問題の解決からソ連を排除したいと考えていることは明らかだった。 しかしバーンズは、このような政治的な動きに出ながら、このとき二つ目の外交的誤算を犯した。もしワシントンの「秘められた課題」が、ソ連を極東の戦争から排除することであったなら、そのためには、トルーマン、チャーチル、?介石とともにポツダムで文書に調印するよう提案することが論理的であったであろう。文書には、連合国は共同して、これ以上の犠牲を防止し、戦争の期間を短縮するために、日本に無条件降伏を要求すると述べられていたのだから。 ともあれ日本の軍事政治指導部は、最後の望みをソ連の姿勢に結びつけ、モスクワの姿勢が明らかになるまで、戦争の停止に応じるようにという「和平派」の呼びかけを拒絶したのである。米政府はこの動きをよく知っていた。四大国の共同声明に天皇制を維持するという約束が入っていたなら、一九四五年七月二六日付のポツダム宣言を日本政府は受諾することができたにちがいない。まさにここでバーンズは、広島と長崎に原子爆弾を使用する必要性に米国を導くという戦略的な誤算を犯したのである。 それだけではなく、この外交的な過ちのために、米国は、満州、朝鮮、千島列島への赤軍の侵攻を止めることができなかった。その結果についてはよく知られている。このために世界の政治地図の上に分裂した朝鮮が出現し、「北方領土」問題や捕虜問題などが生じたのである。同時に中立条約があったにもかかわらずソ連が参戦したことは、日露関係の歴史における「悲しい一頁」をもたらした。
ポツダム宣言に対する東京の反応 こうして一九四五年七月二六日、米英中の政府首脳は、日本に無条件降伏を要求するポツダム宣言を発表した。しかし東京はポツダム宣言にとまどいを覚えていた。そこにソ連の署名がなかったからである。日本政府にとってモスクワの立場は明らかではなかった。日本政府は、ソ連が、妥協的な和平を達成するために日本と連合国との間の仲介者になってくれるのではないかと期待し続けた。 七月二七日に開催された最戦争指導会議で、日本の指導者はソ連の意図が明らかになった後で回答するという決定をした。七月二八日、東郷外相はモスクワの佐藤尚武大使に電報を打ち、「ポツダム宣言にソ連がどういう態度をとるかによって、これからのわれわれの行動が決まる」と述べ、大使には「ソ連が日本に対しどのような動きに出るのか」を至急明らかにするよう指示した。 日本政府は待った。ポツダム宣言の要約を公表しただけで、日本政府は、ポツダム宣言を聞き流すかのような姿勢をとった。しかし、七月二八日、鈴木首相は、戦争継続派から圧力をかけられて、記者会見で、日本はポツダム宣言を黙殺すると表明。この表明は、米国に原爆を使用する口実を与えた。七月二五日に出された爆撃命は取り消されなかった。 七月二五日、モスクワでは佐藤大使がソロモン・ロゾフスキーに会ってくれるよう再度要請した。 佐藤は、七月一八日に外務人民委員代理から書簡をもらったことを思い出していただきたいと述べた。その書簡のなかで、ソ連政府は、天皇の親書には何ら具体的な提案もないため回答は行えないと記していた。これに関し、大使は、本日、ソ連政府に事態を明らかにしたいと述べ、天皇の委任によりソ連に派遣される近衛特使の目的は、現在の戦争を終わらせるためソ連政府に尽力と仲介をお願いし、ついてはソ連政府に具体的な提案を申し述べることであると説明した。大使は、また、戦時中および戦後の日本の対外政策の基礎をなす日ソ関係の改善についてソ連政府と交渉を行うことも近衛特使の任務である、と述べた。 大使は、自国政府から受け取った訓令に基づいてこの通報を行っていると説明し、近衛特使の派遣という特別の委任は、戦争当事国双方のために流血を避けたいという天皇の個人的な希望から出ていると繰り返し述べた。この点に関して、近衛はソ連政府に具体的な提案を伝え、これらの提案に関心を持つようソ連政府に要請するであろう。大使は、ソ連政府が近衛公爵の提言を聞き入れ、特使のソ連訪問に至急同意されたいと述べた。大使は、蛇足ながら、元首相の近衛公は宮中の信頼が厚く、日本の政治家の間で卓越した地位を占めていると付け加えた。 ロゾフスキーは、佐藤大使の説明を聞と、この問題は非常に重大であると述べた。そして、不明確な点を避けるために、大使の通報を文書でいただきたいと述べた。ロゾフスキーは、大使の発言は、日本政府が、日本と英米による双方の戦争を終結させるためにソ連政府に仲介を要請していると理解してよいのかと質問した。佐藤大使は、天皇自身が戦争の終結を望んでいると話し、肯定的に回答した。 佐藤は、自分の声明を書面で差し上げると約束した。ただし、問題が非常に微妙であるので、ソ連政府の回答を受け取るまで、自分の通報を極秘扱いとするよう要請した。 同日の夕方、佐藤大使はロゾフスキーに前の声明を文書で伝えた。公文書館に保管されたこの文書には、一九四五年七月二五日、同志スターリン、同志モロトフ、同志ヴィシンスキーに回覧という書き込みがある。 この会談に基づいて、ロゾフスキーは、佐藤大使あての回答案を作成した。回答案は、検討のため、このときソ連の指導者が滞在していたポツダムに送られた。
回答案には次のように述べられている。?「日本の天皇が、日本と英米の双方の戦争を終結させる問題につきソ連政府の仲介を要請し、ソ日関係の強化についてソ連政府と交渉を行うために、近衛公爵をモスクワに派遣したいとの希望を述べた旨の、七月二五日付の貴殿の声明に対する回答として、私は、ソ連政府の委任により、下記を通報する光栄を有する。 貴殿の声明では、近衛公爵は現在の戦争におけるソ連政府の仲介、および日ソ関係の強化につき具体的な意図と考えを持っていると述べられているが、貴殿は、近衛公爵がモスクワで、どのような意図と考えを述べるつもりであるかを何ら通報しなかった。 ソ連政府は、日本と米国英国との戦争を終結させる問題について、これらの国に対して何らかの具体的な提案を行わない限り、どんな呼びかけをしても、決して成功しない運命にあると確信する。こうした状況のなかで、ソ連政府は信頼を寄せられたことにつき日本政府に感謝するものの、差し当たり仲介の労を引き受けることは雛しい。? 他方、ソ連政府は、日本政府が、ソ日関係の強化の問題につき、いかなる具体的な提案を有するのかを承知したい」? 回答案はこう締めくくられている。「近衛公爵が、モスクワの日本大使?もしくは東京のソ連大使館を通じて、あらかじめ具体的な意図と考えをソ連政府に通報することが、双方にとってより望ましいであろう」 ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ??ポツダム会談の終了? その間、ポツダムでは七月二八日の米英ソ三国の定例首脳会談で次のような対話が交わされた。
? ? スターリン ロシア代表団が、日本から新しい提案を受け取ったことをお知らせしたい。日本についての文書が作成されたとき、われわれには十分に知らされなかったが、われわれは、新しい提案については相互に通報すべきであると考える(ここで七月二五日付の仲介を要請する日本の口上書が英語で読み上げられた。)この文書には何も新しいものはない。提案がひとつあるだけである。日本は、われわれに協力を提案している。われわれは、前回と同じ精神で回答したいと考えている。? ? トルーマン われわれは反対しない。? ? アトリー われわれは同意する。? ? スターリン 私の情報は終わりだ。
 この決定と関連して、モロトフ外務人民委員は、検討のために自分に渡された日本大使あての回答書案に「不要」と書いた。この決定は、ベルリンから電話でロゾフスキーに伝えられた。? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ??七月三〇日、最後の佐藤・ロゾラスキー会談が開かれた。ロゾフスキーの日記から、会談のメモを引用しておこう。
 佐藤はこう述べた。七月二六日に米国、英国、中国は日本に対し共同の呼びかけを発表した。この呼びかけは、日本に無条件降伏を押しつけようとするものである。しかし日本政府は自分の意見を持っており、このような条件で降伏することはできない。日本の名誉と存続が維持されるならば、日本政府は、戦争を終結させるために、広範で協調的な姿勢を示すであろう。日本政府はソ連政府に仲介を要請した。われわれは、人民委員会議議長スターリン大元帥がこれらの要請を考慮するよう希望するものである。? 佐藤大使は、さらにこう述べた。卜ルーマン、チャーチル、?介石の共同呼びかけによって、ソ連政府が日本政府の要請する仲介をためらうことを懸念する。しかし、ベルリンに滞在するソ連政府指導部がこれにしかるべき関心を払い、障害を取り除くことに期待したい。? ロゾフスキーは、再び、「大使の要請を自国政府に報告するという自分の約束を繰り返した」。? これは「猫と鼠」の遊戯であった。モスクワは明らかに時間を引き延ばしていた。何しろ、このときモロトフは、ポツダムでトルーマンと会い、太平洋戦争へのソ連の参戦の問題を討議していたのである。この動きを正当化するために、外務人民委員は七月二九日、連合国の名でソ連政府に対日参戦を要請するよう米国大統領に求めた。? ソ連外務省の公式出版物、即ちベルリン(ポツダム)会談文書集の七月二九日のモロトフ・トルーマン会談のメモでは、この部分が欠落している。筆者は、ロシア外務省公文書館のモロトフ関係文書のなかで会談のこの部分を発見した。恐らく、モスクワは、何とかしてソ連が参戦の口実を探しているという事実から距離を置こうとしていたのであろう。何はともあれソ連の歴史学では、ソ連がこのような不人気な動きを取らざるを得なかったのは米国と英国のせいであると、いつも強調されてきたのである。? ソ連の提案に対する米大統領の反応は興味深い。トルーマンは、モロトフの提案は興味深いが、「スタッフと相談しなければならないJと述べて、即答を避けた。しかし、彼は、心のなかでは、このデリケートな問題で「ソヴィエ卜を助ける」つもりはなかった。これはバーンズの回想録から明らかである。彼は次のように書いている。
? ? ? ソ連側はやっかいな要求を出した。問題は、ソ連が日本と不可侵条約を結んでいることであった(著者注、ここではバーンズは、ソ連が日本と中立条約ではなく不可侵条約を結んでいると勘違いしている)。ソ連政府はヒトラーと同様な条約を結んでいた。しかし、ナチスはその条約を破った。われわれは、米国政府が、重大なはっきりとした根拠もないのに条約を破るよう他国政府に依頼する役目を果たすべきであるとは考えていなかった。実際、ソ連は、数カ月前に、条約廃棄の意図を日本側に通告したが、条約はまだ約一年間、効力を持っている。大統領は、この事実を不安に思っていた。 私個人に関して言えば、ドイツ東部でのソ連の行動、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアにおけるヤルダ協定違反を考慮すると、ロシアの対日参戦なしに済ます方を選びたかった。日本が無条件降伏の受け入れを頑強に拒絶しているにもかかわらず、私は、原爆の使用が成功すれば、われわれの条件によって日本を降伏させるものと考えた。? ?ロシアの参戦についての協定がヤルタで結ばれた後で、軍事情勢は完全に変わった。ルーズヴヱルト大統領と軍指導者たちは、ソ連の参戦を望んだ。だれもが、ヤルタの後に出現した困難を予想しなかった。しかし協定は締結され、われわれは自分たちの義務を履行しなければならなかった。
 さらにバーンズは、ベン・コーエンが国連憲章の義務にソ連政府の関心を向けることを考えついた、と書いている。二人は数時間かけてスターリンあての書簡を作成した。その書簡は、最初に米英中ソの各政府が調印した一九四三年一〇月三〇日付のモスクワ宣言に言及していた。そこには「各政府は、相互に協議し、情勢が求めるならば、法と秩序が回復され、一般的安全保障体制が確立するまで国際平和と安全の維持を目的として、国家共同体のための共同行動を念頭において、他の国連加盟国と協議するものとする」と述べられている。さらに書簡では、国連憲章第一〇六条が引用されていた。それによると、四大国は、憲章が効力を持つまで、モスクワ宣言を基礎として行動しなければならない、とされていた。それから国連憲章第一〇三条が引用されていた。それによれば「本憲章の枠内で国連加盟国の義務と他の国際条約による義務とが抵触する場合には、国連憲章に基づく加盟国の義務が優先される」。 書簡の最後にトルーマン大統領は次のように書いた。「私が思うに、モスクワ宣言の諸条件および上記の国連憲章によれば、ソ連は、国家共同体の国際平和と安全の維持のために共同行動に参加するという観点から、対日戦に関して、他の大国と協議し、協力したいという希望を表明することができる」? 後に大統領はバーンズに、大元帥はトルーマンの勧告に満足の意を表明したと述べた。
 その間、八月四日、テニアン島では第五〇九航空隊の乗員が、初めて、新型爆弾の性質と爆発の仕方について簡単な説明を受けた。翌日、B29爆撃機「エノラ・ゲイ」の乗員は最初の原子爆弾を投下せよとの命令を受けた。八月六日午前二時すぎ、乗員は任務の遂行に取りかかった。現地時間の八時一五分に爆弾はパラシュートで投下され、数分後に広島の上空におぞましい原子の茸雲が舞い上がった。 広島が壊滅してから一六時間後に、ホワィトハゥスは公式声明を発表し、原子兵器製造の歴史について簡単に述べ、原子兵器の巨大な破壊力を強調し、降伏要求を拒絶した場合には「かって地球が知らなかった破壊の奔流が空から日本に降りかかる」と警告した。米国政府は、原子爆弾の爆発後直ちに日本が敗北を認めることを期待していた。しかし、そうはならなかった。八月七日、トルーマンの声明が発表された後、鈴木首相は広島への爆撃についての報告を受け取り、直ちに最高戦争指導会議を招集したが、軍の指導者たちは停戦に反対した。閣議さえ開かれなかった。軍指導部は広島に調査委員会を派遣するにとどめた。軍指導部は、日本本土決戦に向けさかんに準備を重ねていた。外務省は、仲介提案に対するモスクワの回答を待っていた。 その間、米国は、期待された結果を得ないまま、米国が原爆攻撃を続けることができることを日本と全世界に示すために、できるだけ早く二発目の爆弾を投下しょぅとしていた。七月末、二発目の最後の爆弾の使用可能期日は八月二〇日から八月一一日に早められ、一週間後には、さらに二日間早められた。 八月九日、二発目の原子爆弾が長崎に投下された。
一八〇度の路線転換 ジェームズ・バーンズが証言しているように、ハリー・トルーマンは、原爆が広島に投下された後、米国に向かう巡洋艦「オーガスタ」で大西洋を渡りながら、こう考えていた。「ポツダムの経験により、私は、今、日本の支配にロシアを一切かかわらせないことに決めた。・・・・ロシア人が理解することといったら力ぐらいのものだ」 大統領と同じ巡洋艦でポツダム会議から帰国しながら、米国の外交官たちはこれからの対外政策について活発な議論を交わした。ボーレンは次のように回想している。「われわれは、米ソ間の紛争の可能性を意識し、これを深く懸念した。原子爆弾が与えた安心感と力を、米ソ関係においていかに利用することができるかについても話し合った。国家や体制に脅威を与えない限り、ソ連は何ら反応しないことは確かだった。そこで、国境の向こうに去るように要求する直接の最後通牒からさまざまな段階の圧力に至るまで、実行可能な動きを検討した」  ポツダム会議を終えた米代表団を運ぶ巡洋艦「才ーガスタ」艦上で米国の政治家や官僚はこのような構想を練っていたのである。まもなくこうした構想は好戦的な反ソ路線の形を取ることになる。一九四五年九月、ポツダムで計画された外相会議がロンドンで開催されたとき、西側連合国は一八〇度路線を転換した。そのとき、米国の対外政策の強化に参加したのは、有名な「冷戦」の騎士ジョンフォスター・ダレスである。ダレス自身はロンドン会議の様子を次のように描いている。 「このとき(モスクワとの)『非宥和』という戦後政策が生まれた。全体として、われわれはいつもこの政策を維持してきた。・・・・ロンドン会議でのわれわれの行動は重要な結果を生んだ。われわれの行動は、時代全体の終焉、即ち、テヘラン、ヤルタ、ポツダム・・・・の時代の終焉を意味した。共和党員の私がバーンズ国務長官と一獅ノロンドンにいたということからしても、ロシアとの合意を求める政策がほぼ終わるのは間違いなかった」
(了)

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