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75年前の7月26日「ポツダム宣言」が発せられたが、鈴木貫太郎内閣は「黙殺」。広島・長崎への原爆投下。 

2020年07月27日 外部ブログ記事
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――コロナ禍で断念しましたが、ぺリー氏は8月に長崎、広島を訪問する予定でした。75年前の米国による原爆投下をどう捉えていますか。  ペリー氏「広島と長崎に原爆を落とさなくても戦争を早期に終わらせられたかは議論がある。ただ原爆を使うぞと脅かしたり、無人地帯での投下実験をしたりして日本を牽制するという代替策を当時の米国の政策決定者が真剣に検討しなかったことへの批判は免れない」
「軍拡競争に逆戻り」懸念 米識者ら、原爆の日前に 「原爆への道 批判免れぬ」ペリー元米国防長官
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元国防長官ペリー氏は「ポツダム宣言」に「原爆を使うぞと脅かした」文言を、アメリカが入れればと言われているが、全くの後付け論である。ルーズヴェルト(ローズヴェルト)の急死後、副大統領から昇格し、第33代大統領になったトルーマンがソ連の対日参戦を阻止する方針に基づき、日本政府が受諾できないような宣言文に修正した事実は消すことが出来ないだろう。(宣言文の修正は後日に)
「対日終戦問題とドイツ・東欧の戦後処理問題」が中心的議題とされ1945年7月17日から8月2日まで、ベルリンに隣接する町ポツダムで開催された米英ソ首脳会談の経過とアメリカの原爆投下命令を「日ソ戦争の道」、江口圭一著「十五年戦争小史」、「角川世界史辞典」を参考にしながら見ていきたい。「日ソ戦争への道」はソ連崩壊後、未公開のロシア外務省公文書館などの資料をもとに書き下ろされた歴史ドキュメントである。


1939年9月1日ドイツ軍はポーランドへの進撃を開始し、3日英仏はドイツに宣戦を布告し第二次世界大戦が開始された。40年6月10日イタリアは英仏にたいして宣戦を布告した。日・独・伊の三国同盟条約は、9月27日ベルリンで調印された。三国枢軸の陣営と米英の陣営と全世界で対抗することになった。この対抗は、「新秩序建設」という膨張政策および民主主義の絶滅を追求し、米英の陣営がその抑止を期すとともに、三国枢軸による被侵略国への援助をおこなったという関係において、ファシズム・膨張主義同盟対民主主義・反膨張主義連合の対抗であった。1941年8月ルーズヴェルト大統領は大西洋上でチャーチル英首相と会談し、14日「大西洋憲章」を発表した。この憲章は、「両国は領土的其の他の増大を求めず」、「主権及自治を強奪せられたる者に主権及自治が返還せらるることを希望」し、「ナチの暴虐の最終的破壊」をうたい、反膨張主義・反ファシズムの理念を表明した。ソ連は9月この憲章に参加し、10月1日米英がソ連に武器を貸与する議定書が調印された。民主主義・反膨張主義連合にソ連が加わった。しかし、ソ連はこの憲章に違反して東欧を傘下に収め、全千島列島と北海道の一部である歯舞色丹諸島を軍事占領したのである。民主主義・反膨張主義連合は、米英「カサブランカ会談」、米英ソの「テヘラン会談」、中華民国も加わった米英中の「カイロ会談」、米英ソの「ヤルタ会談」と指導者の会議が行われてきた。「ヤルタ会談」ではソ連の対日参戦とその代償ととしての南樺太と千島列島のソ連帰属などについて秘密の合意も成立した。
ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日〜8月2日、ドイツベルリン郊外のポツダムに、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が集まって第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談が行わた。
トルーマン大統領は、巡洋艦「オーガスタ」でポツダムに向かいつつ、首を長くして原子爆弾の実験についての報告を待っていた。7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード軍事基地に近いニューメキシコ州の砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)が実行された。16日の夕方。会議開会の前に、原爆実験に関する最初の短い電報がトルーマン大統領のところに入った。それには、実験の結果が「満足すべきものであり、期待以上のものであった」と記されていた。18日、トルーマンはニューメキシコでの原爆実験の結果に関する詳しい電報をワシントンから受け取った。トルーマン大統領自身は次のように書いている。「7月24日、私はちょっとついでにという感じで、スターリンに、われわれが巨大な破壊力を有する新兵器を持っていると話した。」
当時ポツダムに滞在していたジューコフ元帥の回顧録は「何日だったか正確には覚えていないが、ある会議の後で、トルーマンがスターリンに、原子爆弾とはいわなかったものの、米国が異常に強力な爆弾を作ったと告げた。しかしこの知らせにスターリンは驚かなかった。読んだ情報機関の報告から、米国が強力な原子爆弾の研究を行っていていると知っていたからである。」
7月21日、アラモゴードにおける爆発について文書による詳細な報告を受け取ったトルーマンは、レギ提督、キング提督、マーシャル将軍、アーノルド将軍、アイゼンハワー将軍といったポツダムに滞在していたすべての軍最高指導者の会議を招集した。ここで原子爆弾を日本に対して使用するかという唯一の議題が検討された。全員が満場一致で、原爆の使用に同意した。
7月24日、マーシャル、スチムソン、トルーマンは、米軍参謀本部の作成した命令を承認した。その命令は、戦略空軍司令官スパーツ将軍に対して日本を原爆攻撃させよ、というものである。そこにはこう記されている。「第20航空軍の第509航空団は、1945年8月3日以降、天候が視力による爆弾投下を許すやいなや、最初の特殊爆弾を広島、小倉、新潟、長崎という目標のひとつに輸送すること・・・・」
米国、英国、中華民国が共同宣言を発表した。総理大臣鈴木貫太郎は「ポツダム宣言」黙殺と発言した。歴史に「もし」があったなら「黙殺」ではなく、受諾を検討していると連合国側に通告をしていたならば、トルーマンは原爆投下の指令を延期又は取り消しと変更したかも知れない。日本政府は、ソ連参戦によって和平工作の夢は砕かれ、ポツダム宣言受諾もやむなしと10日、御文庫附属室で御前会議を開き、条件付きで受諾を決定した。条件とは「天皇の国家統治の大権を変更するとの要求を包括し居らざることの了解の下に」である。米国では、原爆投下によって50〜100万人の米国兵士の命が助かり、戦争が終結したという世論が根強くあります。鈴木貫太郎内閣秘書官長だった「迫水久常の手記」に『そして七月二十六日、果然、米英支三国の対日共同宣言が発表された。このポツダム宣言について、いまは詳述する余裕はないが、束郷外相はその承認をとなえ、阿南陸相は、ソ連に仲介を頼んでその返事を待っているところ故、その返事がきてから事を決すべし」という意見で、二つに分れ、結局この宣言に対しては何ら意志表示をなさざることと決定した(しかし新聞は、これを政府は黙殺するという表現を用いて報道し、これが拒絶と受けとられ、その後、八月六日には日本は世界で最初の原爆の洗礼を受け、さらに八月九日のソ連の参戦と、戦況が最悪の状態になったのは、周知のとおりである。』との記述がある。
今日のネットニュースに、知っていますか「模擬原爆」のこと…広島・長崎の前に、日本各地で投下訓練 大阪に今も残る被害の跡
模擬原爆の投下は7月20日に始まって、終戦までに北海道を除く全国に49個投下(海中投棄1個を含む)されたことが分かっている。8月14日には愛知県に2回投下され、うち春日井市にはいっぺんに4個も投下された。これもシミュレーションだったとすれば、終戦が遅れていたら3個目の原爆投下があったかもしれない。
(続く)
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