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雑感日記

昭和60年(1985) みんなエラクなった、最高の年? 52歳 

2011年07月26日 外部ブログ記事
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 ★57年の10月に、どうなるかも解らない単車事業部の再建の中枢企画部を任されてトータルプランを練り上げて、その実戦の旗振りをやってきたが、当時の本部長大庭さんや、ずっと以前からの上司高橋鉄郎さんに援けられて、そして当時の主力市場を担当していた田崎さんとの協働で、主として川重本社の財務部門や本社トップとのやりとりの前面に立っていたのである。
事業部にとって財務と並んでの最重要事項の製品開発に関しては、それこそ大庭本部長が陣頭指揮でおやりになったし、リンカーン工場や明石の工場関係は大前さん、CKDなどの営業は北村さん、KMC、国内を除く世界直販会社は関連の前田君、資材は実力派の石井さんなど若かったがみんな実力派が揃っていた。
前年度には世界の販売会社は全て黒字転換を果たしたし、この年度の3月期は念願の事業部の黒字化12億円が目標で、大庭さんはそれに非常に拘っておられたのである。ところがこの年の幕開けは、設計変更などの要因もあって、資材費のコスト関係で5億円悪化するということから始まったのである。
所月早々、大庭さんの激怒から年がスタートした。 大庭さんも怒りだしたら無茶苦茶恐いのである。この悪化は単に資材が悪いのではなくて、コストに関係するトータルを見ている部門がなく、設計変更などの要因も絡んでいるので、単に資材部長に怒ってみてもどうにもならないところもある。今後企画にコスト担当を専任で置いて企画が責任を持つ体制にするということで、何とか収まったのである。
この3月末までには、前年計画したアメリカのKMCの新社屋建設問題も、監査役の『累損がある会社が新社屋を建てるのか?』と言う監査役としては尤もな発言も飛び出して、財務担当の松本さんもなかなか賛成し難い難しい状況に追い込まれたりしたのである。
ただ社長からは、来年度の利益は50億と言う目標が出されたりして、ある意味全社的に二輪事業に懸ける期待も大きかったのである。KMCの『累損消去』の問題は、監査役の指摘される前から、事業部の利益よりも優先する第一課題に上げていたので、この監査役の指摘を逆に利用して『あと2年』での消去計画を立案し、結果として新社屋問題もGOサインが出たのである。
この年の3月末の決算は、いろいろあったが、円安にも援けられて、結果は23億円の黒字となり、この年度に、二輪に関連する全事業の黒字化=再建が達成できたのである。
 
★その結果、大庭本部長の専務昇進も、高橋鉄郎さんの取締役も内定し、私自身も高橋さんの後を受けて、企画室長に昇進し、サラリーマンとしては待望の個室、部屋を頂く身分となったのである。
二輪事業は世界に販売会社などを展開していて、社長と呼ばれている人もいっぱいいたし、海外での社長室はあって当然だから、個室に入っている人はいっぱいいるのだが、国内はなかなかそうはいかなかったのである。
ちなみに、新しく建てるKMCの社長室などは、日本とアメリカとの違いで、川重本社の社長室よりも広いと思われる立派さだったのである。このとき計画した新社屋の予算は9Mドルで決まったので、当時の円ドルレートで云えば、20億を超えるよさんで、広大な敷地に、立派な社屋を計画したのである。
単車再建と言うプロジェクトは、ここで一応のけりがついて、『万事めでたし』で収まったのかと思ったのだが、現実はそう簡単には行かなかったのである。
 
   
 
 ★3月までは順風満帆であった。
このころ、260円であった円ドルレートは、月を追うごとに『円高の一途』をたどり、年末には200円になってしまうのである。
いろんな対策をして、200円なら、何とか事業部も黒字というところまでは頑張ったのだが、この翌年になると、200円を切ってしまい、二度と200円台には戻らなかったのである。
翌年の3月末は175円だったから、1年での上昇率は30%を超えて、それこそどうにもならぬ状況だったのである。
今、ちょうど円高だが100円が80円になって20%だから、30%を超えるとなかなか大変なのである。それでも結果的にはそれを乗り越えて、その後二輪事業が川重の経営を支えた時期も長かったから、体質的には少々のことにも耐えうる強靭なものになったのだと思っている。
 
この時期に、二輪車とともに、ジェットスキーを事業のもう一つの柱にすべく動き出している。単車事業部の中にはジェットスキーを扱う部門は皆無だったので、8月にオーストラリアの社長から帰任した鶴谷君にこの新事業の担当をやって貰ったのである。帰国早々『ジェットスキーを』と言うと彼は憮然としたが、それ以降本当に情熱を傾けた仕事ぶりであった。
国内のジェットスキーのレース協会JJSBAの会長も自ら引き受けてくれたし、ヨーロッパ各国のジェットスキー展開も彼と福井昇君sと数人で展開したのである。
この年の9月末にはドイツとスイスの国境のボーデン湖で会ったボートショーに始まって、スイスからスペインのマドリッド、さらにはジブラルタル海峡の直ぐヨコの避暑地マラガなど、ヨーロッパの市場調査に、レンターカーを借りて自ら運転して二人の目で確かめてきた。なかなか体験できない旅だったのである。 フランスもイギリスにも行ったのだが、ドイツ語、スペイン語、フランス語圏は言葉がどうにもならないし、道路標識が読めないのである。
イギリスに入って、英語が通じてホントにほっとした。
 
この年は、一番多くKMCの田崎さんとのコンビで話をした年だと思う。 企画室長と言っているが、本社関係とアメリカとジェットスキー、それになかなか難しいとみなさんが仰る大庭さんの担当をしていただけで、あとは、みんなが本当によくやってくれたし、全体は高橋鉄郎さんがおられたから、円満に纏ったのだと思っている。
大庭さんが、高橋さんも、私も、田崎さんも、リンカーンの社長だった佐伯君も、みんな信頼をして頂いたからよかったのだと思う。
単車の人たちはみんな本音で話す方が多いのだが、大庭さんはそんな単車の気質があっていたように思う。故人になってしまわれたが、大庭さん、単車時代が一番オモシロかったのではなかろうか? 大庭さんにとっても一番力量を発揮された1年だったのだと思う。
 
★この年の8月13日、御巣鷹山の日航ジャンボの事故があった。このころのお盆休みは海外販社は休みでないので、海外出張は例年お盆休みに行くことになっている。
事故の翌日、高橋鉄郎さんと日航ジャンボでアメリカ出張に行っている。 流石にガラガラだった。
宗兄弟が北京マラソンで、1,2位になっている。 そんな年だった。
 
息子は関学の4年生、サッカーは待望の1部に上がって、夏には総理大臣杯の大会にも出場した。確か関西地区予選の決勝戦は大商大とでそのゲームは、NHKがテレビ中継などしたのである。そのおかげで我が家にビデオを買うことになったりした。
本番では、2回戦で早稲田に1−0で負けたのだが。多分、この試合のお陰で、全日空のサッカー部に引っ張られたのだと思う。 
このころは大商大の全盛期でこの総理大臣杯も大商大が制している。
 
この年までは、4輪はホンダアコードに乗っていた。 『ホンダなどに乗りやがって』などと言う社内の声があったのも知っているが、あまり気にもならなかった。レース時代山本隆、歳森師、星野一義が初めて買った車がS600だったし、むしろ同じ業界の車に乗るべきだとも思っていた。大ぴらにホンダに出入りが出来て、ホンダさんのやり方も解ったし、何よりも鈴鹿サーキットに行った時の待遇がいいのである。
ただ、もう何年も乗っていたし、企画室長になってやはりちょっときになったのか、すぐビスタに買い替えたりしている。
ある意味、職位を考えた時期があったとしたら、この年だったのかも知れない。この年だけで、すぐ忘れてしまったが、自分が思う以上に、高橋鉄郎さんの後を継いだ企画室長は、自分でも重かったように思う。
まあ、最高にいい回転であった、1年だったと思う。 翌年からまた苦労するのだが・・・
 
 
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