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歴史散策「兵器を運んだ甲武鉄道飯田町駅」レポート《番外編》日清戦争と広島大本営 

2019年10月26日 外部ブログ記事
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「軍部は、西は広島、北は青森までの軍隊の直通輸送計画をたてていた。」(新宿駅100年のあゆみ)
それは、軍港宇品港までの鉄道路線敷設を意味しており、最前線である広島城陸軍第五師団司令部で明治天皇自身が戦争の指揮をとることになりました。

明治天皇の葬儀が行われた後、青山練兵場は明治神宮の外苑となり「聖徳記念絵画館」が建てられました。
絵画館には80枚の壁画(日本画40枚、洋画40枚)が展示されていますが、日清戦争を題材とした絵画が「五十八 日清役平壌戰」、「五十九 日清役黄海海戰」、「六十 廣島大本營軍務親裁」、「六十一 廣島豫備病院行啓」、「六十二 下關媾和談判」、「六十三 臺灣鎮定」の6枚があります。
壁畫集から転載します。
当時は日清戦争を「日清役」、「明治二十七八年戰役」、日露戦争を「明治三十八九年戰役」と呼称しました。



「五十八 日清役平壌戰」


「五十九 日清役黄海海戰」


「六十 廣島大本営軍務親裁」


「六十一 廣島豫備病院行啓」


「六十二 下關媾和談判」


「六十三 臺灣鎮定」




「壁畫解説」から「六十 廣島大本營軍務親裁」と「奥付」を転載します。


「圖ハ明治二十七八年戰役中、天皇廣島大本營二於テ深夜地圖ヲ燈下二展べサセラル、参謀次長川上操六ノ奏上ヲ開キ給フノ光景ナリ。」

甲武鉄道計画路線を青山練兵場方面に変更させ、青山軍用停車場を造らせたのは川上操六だったと言われています。
靖國神社境内千鳥ヶ淵側に、子爵品川彌二郎と陸軍大将川上操六の銅像が建立されました。
敗戦直前に、川上操六の銅像は金属供出となり、品川彌二郎の銅像は現在も存在しています。

「銅像写真集偉人の俤」より



「壁畫解説」にあるように広島第五師団司令部に大本営を設置し、明治27年9月15日明治天皇が広島に赴き、日々御前会議を開いて戦局を指揮しました。
靖國神社境内の富國徴兵保険相互會社が献納した大灯籠のレリーフに「明治廿七八戰役廣島ノ大本營」があります。











2008年2月に宮島厳島神社や姫路城方面を旅行したとき、広島城でレリーフと同じ角度で城門を撮影し、広島護國神社も見学しました。
原爆投下によって、広島城も壊滅しましたが1958年に再建されました。


管理人








最後に、軍都広島と宇品港の地図を再掲します。



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(了)

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