メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

葵から菊へ

歴史散策「三八式歩兵銃を製造した東京砲兵工廠」レポート 

2019年10月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



〜東京の戦争遺跡を歩く会〜 「三八式歩兵銃を製造した東京砲兵工廠と兵器を戦場に運んだ甲武鉄道飯田町駅を歩く」を東京新聞首都圏版等で募集したところ17人の参加がありました。
アシスタントは「コープみらい平和部会」のH・Fさんにお願いしました。
地元文京区の春日、湯島、小石川から参加された方、87歳の東京学芸大学名誉教授・理学博士大沢眞澄先生、「神田川クルーズ」も催行している(株)ジールの航海士小倉博明さん、webマガジン「にほんごサンデー」【杉本クリエイション】Editor杉本京子さんなど多彩な方々に参加して頂きました。



(画像提供は杉本京子さん)

コースは、陸軍砲兵工科学校跡碑・諸工伝習所跡記念碑→東京砲兵工廠射撃場跡→東京ドームの同工廠レンガ基礎跡→小石川橋→甲武鉄道飯田町駅跡ですが、二回にわけてレポートします。

文京シビックセンター1階エントランスに集合、10時に出発してから東京戦歿者墓苑休憩室で15分の座学後、2階のご遺族が提供した遺品と遺書展示室を見学。(以前より充実した展示内容となった。後日レポートします。)



礫川公園内陸軍砲兵工科学校跡碑・諸工伝習所跡記念碑を見学。









礫川公園土手と東京メトロ丸ノ内線後楽園駅隣接して、東京砲兵工廠地下射撃場入口があります。
煉瓦造りの入口は、以前は誰でもが見学可能でしたが、何時の間にか獣道のような雑木林を抜けていかないと見られないようになっています。
内部の写真は文京区ふるさと歴史館学芸員が撮影をしていますので提供するよう依頼の電話をしましたが、国、都との協議によって非公開となっているそうです。



現在は有刺鉄線で近寄れない。








昭和女子大学大学院生活機構研究科生活機構学専攻・教授堀内正昭氏に委託し、世田谷区教育委員会が2018年3月に発行した「旧近衛輜重兵大隊営内射撃場の調査報告ならびに復原的考察」中『陸軍建築事務規定付録(陸軍建築設計要綱改正案)』第2章「射撃場」から抜粋。


・・・・・・・・・・・
[通則]
・小銃、重及び軽機関銃等の基本射撃を行う。
[射距離]
・輪重兵連隊においては、小銃の場合は50m、200m、300m、軽機関銃の場合は50m、200m、300mの射距離で、重機関銃は用いない。
[標準平面]
[標的]
・相隣接する標的は射撃中にあっても監的壕内に おいて安全に着脱できるようにする。
・幅1m及び2mの標的を植立できるようにする。
[地盤]
・射撃場縦方向の傾斜は、銃口と標的中心とは水 平を理想とし、150分の1以下を可とし、止む を得ない場合には70分の1までとする。
[射場]
・発射台は各種姿勢に応じ、長幅各3mとする。
[監的壕]
・壕内には監的鏡台、監的手用腰掛、梯子を、なお必要に応じて電話回線の設備を付ける。
・壕内床は出来るだけ舗装し、排水を完全なものとする。


・・・・・・・・・・・
礫川公園を後にしてから、東京メトロ丸ノ内線後楽園駅構内を抜け東京ドーム敷地に入りました。
日本野球機構が建立した野球選手戦歿者「鎮魂の碑」を見学。



東京ドームホテルが設置した東京砲兵工廠レンガ基礎を見学。







小石川後楽園東門を見学。
園内に建立されている東京砲兵工廠記念碑と謎の機械工具部品を写真で説明。















次回は小石川橋を渡ってからの「甲武鉄道飯田町駅」をレポートします。

新人物往来社刊「日本陸海軍事典」から「砲兵工廠」と「三八式歩兵銃」を抜粋。
・・・・・・・・・・・
「砲兵工廠」
 陸軍の銃砲・弾薬を製造する陸軍直営の工場。一八七九年(明治一二)から一九二三年(大正一二)の間、砲兵工廠と呼称された。陸軍は西南戦争の経験から、兵器の国産化・量産化を図るため、一八七九年、従来の砲兵本(支)廠の兵器製造機関を整理統合し、それぞれ独立した東京砲兵工廠と大阪砲兵工廠を新設した。
 新設当初の東京砲兵工廠は、小銃製造所・銃砲製造所・火工所・大砲修理所・火薬製造所からなり、小銃・小銃弾薬・火薬の製造を担当し、大阪砲兵工廠は、製砲所・製弾所・製革所・火工所・小銃修理所からなり、火砲・火砲弾薬・車両の製造を担当し、以後この分野でそれぞれ発展していった。
 すなわち東京砲兵工廠は、村田銃等の小銃と弾薬の製造に、大阪砲兵工廠は、加農砲・楷弾砲・臼砲とこれらの弾薬の製造に当たった。この間、東京砲兵工廠は一八八三年(明治一六)一月、火薬製造所を板橋火薬製造所と改称するとともに、岩鼻火薬製造所を新設し、一八九〇年八月火工廠を火具製造所に、大砲修理所を砲具製造所に改称し、翌年一一月海軍から移管された目黒火薬製造所を加えた。さらに一九〇四年一一月熱田兵器製造所を新設、一九〇六年に精器製造所を砲具製造所から独立させ、一九一八年織(大正七)六月名古屋機器製造所を新設した。
 大阪砲兵工廠は、一八九〇年八月製砲所を火砲製造所に、製弾所を弾丸製造所に、製革所を砲架製造所に、火工所を火具製造所に改称し、小銃修理所を廃止した。一八九四年二月宇治火薬製造所を新設、一八九七年に門司兵器製造所(一九十六年四月小倉に移転し小倉兵器製造所となる)、一九〇六年鉄材製造所・薬莢製造所、一九〇七年器材製造所を新設した。
しかし、時代の進歩とともに、東京と大阪の二工廠が各々独立して陸軍大臣に直属した体制は、生産効率・業務処理上聞題点が多くなり、一九二三年(大正一二)四月、これらを整理統合した陸軍造兵廠が設置され、陸軍造兵廠長官の下に東京工廠・火工廠・名古屋工廠・大阪工廠などに再編された。 


「三八式歩兵銃」
 三〇年式をヒントに一九〇五年(明治三八)採用された。デザイナーは砲兵大尉南部願次郎で、防塵用の遊底カバーをつけた。青島攻略(第一次大戦)、シベリア出兵、支那事変、太平洋戦争の終わりまで広く使用された。口径六・五ミリ。装弾数五発、照尺は三〇〇〜二四〇〇メートルまでついていた。長さ一・二八メートル、重さ三・九五キロ、弾丸の初速七六二メートル/秒。弾丸は一発八・八グラム、弾丸の長さ三・二センチ (薬莢を除く)。普通、三〇〇メートルの距離で射った。細くて比較的命中率もよく好評だった。日本とイタリアのみが第二次大戦中、六・五ミリ銃を使い、他国は七・六二〜七・七ミリを採用した。日本の場合、天皇陛下からお預かりした大切な兵器として精神的にも重視したのが特徴である。この小銃弾は四〇〇メートル離れた八ミリの鉄板を貫通する威力があり、五〇〇メートル先に立っている敵兵にも命中した。三〇〇メートル先にしゃがんでいる敵に当てることも容易だった。一会戦分に兵士は一二〇発を持つ。三〇発ずつベルトの左右につけた小箱に入れ、残り六〇発は部郵に入れた。三八式小銃は一〇〇万丁も生産された。

檜山ミュウジアム所蔵品




靖國神社境内(2009年8月15日)撮影管理人


・・・・・・・・・・・
(続く)

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ