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10の法語 「信心というのは すなわち本願力回向の 信心なり」 について 

2019年10月15日 外部ブログ記事
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「信心」というのは すなわち本願力回向の 信心なり

10月の法語解説
「『他力(たりき)の信(しん)』と『他力(たりき)回向(えこう)の信心(しんじん)』とは、まったく異なった事柄である」。
最初、このことを聞いた時、私は驚き、違和感を持ちました。その時まで、自分の心で他力を信じると思い込んでいたからです。「他力の信」とは、「私が他力を信じる」という立場です。ところが「他力回向の信心」とは、私が信じる心も他力のはたらきであるという立場です。この二つの区別が、私の人生にとってどれほど大きな意義をもつか、少しずつ思い知るようになります。
私たちは自分の心に、何を信じるか、何を信じないかを選ぶ能力があり、また決定する自由があるのだと思い込んでいます。しかし、そのような自分の心によってつくりあげた信は、自分の都合で変えることでき、また現実によって崩れるので、真の依(よ)り処(どころ)にはなりません。自分の心は、病気になれば変わってしまい、死によって消えてしまいます。自分の心には、老病死によっても壊れない信心は成り立たないのです。
私たちの心はみな、虚構(虚妄分別(こもうぶんべつ))という病に罹(かか)っています。その心によってつくりあげた信も、虚構という病に感染しています。それゆえに、みずからに酔う独善的な信仰となり、善悪にとらわれた排他的な信条となります。自分の知識や心情や体験などにとらわれて、理解の浅い人を排除し、感動の無い人を差別し、意欲の弱い人を非難するのです。
源空聖人(げんくうしょうにん)(法然上人(ほうねんしょうにん))のもとで学んでおられた親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、すべての人に平等な信のあり方を言い当てることができないもどかしさの中で苦しんでいました。その時、源空聖人から驚くべき言葉を聞きます。

★日本共産党のイデォロギーに対して全く賛成できませんが、最近の共産党の各委員会等の発言は、「しがらみ」がないからか?大部分において納得のいくものだと思っています。

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