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泡にまみれて♪

天空の城・竹田城跡の行き方 

2019年07月13日 ナビトモブログ記事
テーマ:親睦会

3連休ですね♪
萌えていますか\(^o^)/(笑)
私は・・・飾り物でも・・萌える(;^ω^)
愛は高齢も救う♪

今回、車のナビとスマホの無料ナビをセットして走りましたが、
スマホのナビは常に最新情報に更新されていますので、こちらを利用した方が良いのでは。
車のナビは古いので(>_<)
画面は新設された道路が無いので、山の中を走行中(笑)

スマホのナビで「山城の郷」「竹田城跡」を入力すると容易に行けると思います。
私は車で大阪出発。今回の初日は湯村温泉でしたが、もし初日に竹田城跡へ行くなら次のルートに。
スマホナビの案内は・・目的地まで約150km・2時間
阪神高速池田出口で中国自動車道→中国道・吉川ジャンクション→舞鶴若狭自動車道→北近畿豊岡自動車道→「和田山IC」から一般道を経て10分で竹田駅

竹田城跡の先に城崎温泉や湯村温泉があり、姫路城〜竹田城〜城崎・湯村温泉と湯治巡りができるゴールデンコース。年々知名度がアップでシーズンに入ると大渋滞か?(>_<)

スマホのナビが使えない方はJR播但線「竹田駅」を目指し、そこに車を停め、天空バスで竹田城跡の駐車場へ。
そこから徒歩20分。ご長寿なら30−40分で♪ 頑張れ\(^o^)/

雲海の見ごろは10月11月。早朝に反対側の山の展望台に登ると雲海の中の竹田城跡が見えます。
この時期はお城跡や反対側の展望台への天空バスも増便。
4月上旬の桜の時期も最高♪
是非、お楽しみください♪ 私も(*^^)v

私が額縁を持った場所に、ボランティアのご長寿がおられ、竹田城にまつわる解説を♪
石垣はこの山を切り出して積み上げた。お殿様の生活の場では無く、見張り台(城)の役目。
お城の形が分かる絵や資料は残っていないと言われた。当時の城主が火を放ち全ての資料が焼失との事。

とても元気なご長寿♪日に焼けて黒く・・80歳前後?
お歳を聞くと・・・72歳\(^o^)/(私とほぼタメですが・・老けて見えた)
私の歳は言えなかった(;^ω^)

歴史を調べてみると
「天空の城」として知られる竹田城は、兵庫県朝来市にあった山城。
嘉吉元年(1441)嘉吉の乱勃発後、山名氏と赤松氏の間には深刻な対立が生じていました。竹田城は、この時期に赤松氏に対する山名氏方の最前線基地の一つとして築城されました。山名家臣・太田垣光景が初代城主となったと伝えられ、以後太田垣氏は七代にわたり城主を務めた。
永禄十二年(1569)、天正五年(1577)の二度にわたり羽柴秀吉は但馬を侵攻し、竹田城も落城しました。その後、秀吉の弟・羽柴秀長が城代となり城内を整備しました。天正八年(1580)に桑山重晴が城主となり、さらに天正十三年(1585)には四国征伐等で戦功のあった赤松広英が城主となる。広英は、九州征伐や朝鮮の役で活躍したほか、領内の産業振興に努める。しかし、関ヶ原の合戦では初め西軍に属し、合戦後に徳川方について鳥取城を攻めたものの、城下に火を放ったことが徳川家康の不興を買って自刃させられる。その後まもなく、竹田城は廃城となった。
城は、標高353.7メートルの古城山山頂から三方に伸びる尾根上に曲輪を連続的に配置し、堀切や竪堀で防御性を高めている。城の表にあたる南東側は急斜面で要害の地にあったことが分かる。

竹田城は「日本のマチュピチュ」と呼ばれているお城。
マチュピチュといえば、ペルーにある古代インカ帝国の遺跡で「天空の城ラピュタ」のモデル地としても有名

古代インカ帝国の遺跡「マチュピチュ」を紹介します。
https://youtu.be/Zk9J5xnTVMA
マチュピチュは日本人が造った?(世界不思議発見で紹介)
マチュピチュ村を創った野内与吉さん(偉大な日本人)
昭和23年、村の復興のため、マチュピチュ村村長に任命される
https://www.vill.otama.fukushima.jp/kokusai/yuukoutoshi/nouti/
福島県大玉村は、平成27年10月26日にペルー共和国マチュピチュ村と世界で初めて、友好都市協定を締結した。
https://www.vill.otama.fukushima.jp/kokusai/yuukoutoshi/

お爺ちゃんの萌え&お城巡りは(完)

PS:眞子さまがペルーを訪問中m(__)m



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ぼてふり様コメントありがとうございます。

モッチャンさん

ぼてふり様
おはようございます。
拍手並びにコメントありがとうございました。
昨夜は雨の中、先輩に呼びだされ・・北新地で泥酔(>_<)(笑)
お返事が遅くなりましたm(__)m

おっしゃる通り、山城は防衛機能が至る所に工夫が・・難攻不落の尾根遺産的かも(笑)
若いころ・・尾根遺産の鎧がフロントホックとは知らず・・焦った事も(;^ω^)

私が江戸時代に暮らすなら・・世之介か?井原西鶴の処女作ですが・・
「たはふれし女三千七百四十二人・・」にはほど遠い(笑)・・
しかし、歴史の時間軸を短く区切ると・・たはふれし初物は・・優ったかも?
赴任中の出来事ですが・・・紅色一代男でした♪

ありがとうございました。

2019/07/14 09:00:21

山城

ぼてふりさん

日本には約3万ほどの城がありました。
そのほとんどは石垣や天守を持たない「山城」

砦の姉さんのようなもので戦略的要地の小高い所に築かれていました。

尾根筋を堀切で切断し、土橋などを配置、曲輪の出入り口には虎口や馬出があった。
少ない兵力で射線を確保する。

その土地の特性を考慮して作られていましたね。

堀切の角度は関東と関西では違っていたそうです。
関東は関東ローム層なので、雨など降ればぬかるむ、土壁がボロボロ崩れるので角度は急ではなかった。
しかし、関西圏などでは土質が硬い、だから急峻に作る。

九州・豊後にある「岡城」
大友氏の分家、志賀親次が守っていました。

四方絶壁の岩山に囲まれた要塞で鬼島津(義久)も攻め落とせなかった。

山城にはいろんな話が残っていて興味尽きません。

2019/07/13 15:44:32

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