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パトラッシュが駆ける!

穀倉地帯 

2019年06月29日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

千葉駅発の電車は、ちょうど通学通勤の時間に重なり、込んでいた。
毎度のことだから、私は承知している。
一駅、二駅過ぎるや、汐の引くように空くはずだ。
こういう時は、学生グループの前に立つと良い。
それみろ、四街道駅で、ぞろぞろ降りて行った。

四十分ほどで、成田に着く。
この際に、居眠りをしていてはいけない。
うかうかすると、空港まで運ばれてしまう。
そこには、現代文明の粋を集めた、別世界がある。
私はここで、銚子行きへと乗り換え、土俗の色濃い、
旧世界へ向かわねばならない。

電車は、田園地帯へ入り、乗客はさらに減り、
停車する駅という駅が閑散としている。
典型的なローカル線だ。
車窓には、緑の水田が広がる。
小山が現れ、時に遠望を妨げるが、なに、焦ることはない
すぐにまた、広やかな田んぼが現れる。
良い光景だ。
千葉県も穀倉地帯だと思う。
農こそが国の基幹であるべきだ……
なんてことを、私はぼんやり考えている。

母は、ここ下総の地、利根川の川べりの農家に生まれ育った。
十六歳の時に母を、十八で父を喪っている。
弟妹を養わねばならぬ、長女としての責務もあったであろう、
やがて東京に出た。
小学校しか出ていない母に、気の利いた働き口なんぞ、
あるわけもなく、ある屋敷の、住み込みの女中として働いた。

やがて、その甲斐甲斐しい働きぶりを、認められたのかもしれない。
近くに住み、屋敷に出入りしていた、父に見染められたらしい。
父は当時、若いながらも、建設業を営んでいた。
「なあに、可哀想だから、貰ってやったのよ」
父が酔って言ったのを覚えている。
それを額面通りに受け取れないことは、
私自身がよく知っている。
母の若い頃の写真を見たことがある。
きりりと顔が引き締まり、そこそこの美人であった。

父は新潟の農家の三男坊であった。
長子相続の農家には、何時までも居られぬ身であり、
長じて東京へ出た。
だから私には、他の多くの日本人と同じく、
農民の血が流れていることになる。

かつて、見よう見まねで、家庭菜園をやったことがある。
ジャガイモ、大根、キュウリ、ナスなどを作った。
しかし、稲だけは手に負えない。
水田がないのだから、どうにもならない。
稲作をやってみたいと思いつつ、それは都会生活者にとって、
見果てぬ夢であった。

母は、六十三歳で死んだ。
戦中戦後の混乱期に、四人の子を育て、ワンマンな亭主に仕え、
一家の主柱であり続けた。
「苦労だけで終わらせてしまった」
私達四人の子は、その葬儀の時に泣いた。
孝行と名のつくものを、何一つ、誰一人としてやっていない。

一方の父は、米寿を目前とするところまで生きた。
時代と共に、私達一家は豊かになり、
父はその余生を安楽に全うすることが出来た。
その両者に対する、追慕の情に、差が出ることは、
やむを得ないと思われる。

私は毎年、初夏の頃に、母の生まれ育った地へやって来る。
母が生きていたら、きっと故郷が恋しかろう。
父母の墓にも参りたいであろう。
私のやっているのは、故人を忖度しての、代理墓参ということになる。

 * * *

今は香取市に編入されているけれど、
昔は単に「小見川町」であった。
小さな町であり、駅舎はあっても、コンビニがない。
飲食店も少ない。
ましてや朝の九時過ぎ、何処も開いてはいない。

だから私は、千葉駅の売店で、弁当を買って来た。
墓に着いて、清掃、献香、読経などを済ませ、
それから墓の一隅に腰を下ろし、そこで朝飯を食べる。
それが恒例となっている。
ところがどうだ。
梅雨の合間を見計らい、やって来たら、これが好天を過ぎて、
かんかん照りであった。
こりゃあ、日干しになっちまう……
私は、墓での朝食を諦め、寺を後にした。

もう一ヶ所、寄るところがある。
母の実家である。
母の長兄、つまり私には伯父に当たる人が、家督を継いだが、
とうに死に、その後を継いだ、従兄も死に、今は無住になっている。
その屋敷を外から眺める。
それも私の代理帰郷の目的の一つである。

人の気配はないものの、建物は残っていた。
廃屋にはなっていない。
それを確かめただけだ。
かつて、母が見たであろう光景を、私も見た。
だから、私のやっているのは、代理確認と言うことになる。

二つの目的を果たした私は、駅に戻った。
次の上り電車まで、三十分ある。
ホームに上がり、ベンチで弁当を食べた。
千葉駅名物「潮干狩り弁当」であって、これが美味い。
貝がふんだんに入っている。
イカも玉子焼きも美味い。
貝の味の染みた、ご飯も美味い。
ビールを買って来なかったのが、悔やまれる。
買おうにも酒店がない。
地元の皆さんは、どうしているのかしらと思う。

やがて来た上り電車に乗った。
往復六時間余を電車に揺られ、現地滞在は一時間半……
現役時代の私だったら、その効率の悪さを嘆くであろう。
しかし、今は自由の身だ。
時間はたっぷりとある。
長旅を嘆くどころか、むしろ楽しんでいる。

乗客は、一車両に数人しかいない。
往路に見た光景を、再び眺める。
一面の緑ほど、目に快いものはない。
私は、一度でいい、田植えというものをやって見たかった。

田を見て、山を見る。
目をつぶり、また目を開く。
依然、一面の緑が続いている。
我が古里は、穀倉地帯なり……
私は車窓に向かい、一人で、含み笑いをやっている。



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はい

パトラッシュさん

喜美さん、
わかりました。
口述筆記がよろしいですね。
但し、飲み過ぎないように気を付けねばなりませんね。
そこが少し心配です。(笑)

2019/06/30 14:05:30

お酒持って来て

喜美さん

私はお喋りですから書けない事も
細かくおしゃべりします生まれた時から90歳まで 是非皆さんで遊びながら来て話聞いて下さい

2019/06/30 06:23:51

望郷

パトラッシュさん

まはろさん、
父母への思いは、歳を重ねる毎に、強くなりますね。
その気持がわかるようになった……からでしょう。
遠くに在ると、なおさらでしょう。
望郷の念は、より強くなるものです。

2019/06/30 05:47:17

涙が出ました

まはろさん

パトラッシュさん

胸が熱くなり涙が出ました

そして父母のこと遠い故里を思い出して懐かしさで一杯です

2019/06/30 03:40:10

東京は現実的過ぎて

パトラッシュさん

みさきさん、
空港へ向かわれる乗客は、すぐにわかりますね。
何せ、あの荷物ですから。
一車両に必ず、数人は居るようです。
みさきさんは、北信に良き故郷を持っておられる。
私は、東京生まれの東京育ちなもので、父母の地を代わりに故郷と思い、代理帰郷を続けております。

2019/06/29 16:26:59

お手伝いならさせて頂きます

パトラッシュさん

喜美さん、
お書き下さいよ、ご両親のこと。
そして、ご自身の生きて来た道。
走り書きで良いのです。
それを直し、文体を整える……くらいのことは、お手伝い出来ると思います。

きっと読み応えのある、自伝小説になると思います。

2019/06/29 16:15:34

異郷

パトラッシュさん

風華さん、
海峡を越え、指呼の間……と言っても、やはりサハリンは遠いです。
なかなか叶うことでは、なかったでしょうね。
何時の日か、チャンスがあったら、風華さんお一人でも、行けるとよいですね。
代理帰郷、それも良いものです。

2019/06/29 16:11:27

自由な時間を

パトラッシュさん

彩々さん、
この歳になると、故郷が恋しくなります。
私は、杉並に生まれ育ったので、特に故郷と呼べるものはありません。
代わりに、父母の故地を訪ねるのが、楽しくなっております。
彩々さん、須磨とはまた、いいところに故郷をお持ちです。
心行くまで、歩いて下さい。

2019/06/29 16:06:57

そうでしたか

パトラッシュさん

シシーマニアさん、
千葉に在住した時期がおありだったのですか。
お母様は、活動的な方だったのですね。
房総半島は、意外にも見どころの多いところです。
日帰りドライブには、お誂え向きのところだったでしょう。
下総それも、利根川に流域は、とくに名所等はありませんが、伸びやかな田園風景が広がっています。
それを眺めているだけでも、楽しいです。

2019/06/29 16:02:26

引き込まれました。

みさきさん

千葉―四街道―成田、ああ、先日通りました、と思いました。ーーーが、いつの間にか、母が見たであろう物を見、父が見たかったであろう物を見る心の旅へ、過去も未来もある永遠へと引き込まれました。<(_ _)>

2019/06/29 15:17:15

お見事

喜美さん

読ませて頂き私の親との一生も
パトさんに書いて頂きたくなりました
(自分では全くかけません)
唯思い出に浸りながら。

2019/06/29 14:24:43

思い出

風華さん

すてきな お話しを読ませていただきました。
お母さまの古郷に立ち寄るたびに多くの思い出が
蘇るのでしょうね。

私は母が元気で歩けるうちに、母の育った古郷サハリンへ連れて行きたかったけれど、とうとうできなかったことが悔やまれています。

2019/06/29 14:11:12

一人、旅をした気分で

彩々さん

読ませていただきました。

一緒に電車に揺られている体感迄、
ここで味わえるなんて!

さすが、師匠です。

追憶と共に、母の目線で郷里を訪ねる。
母上も喜んでおらえることでしょうね。

私も見習って、母が育った須磨の土地を
歩いてみたいものです。

2019/06/29 12:30:15

穀倉地帯

シシーマニアさん

私も、高校と大学時代を、千葉市で過ごしました。

運転の好きな母が、特に用事が無くても、まるで暇つぶしのように、よく房総半島を走りましたので、穀倉地帯、という言葉には懐かしさがあります。

お料理が苦手だった母が、喩えそれが一時間程度の距離であっても、美味しいラーメン屋さんへの「老アッシー」となる方を好んだので、小さなお店を目指して、随分房総半島は走りました。

それは、子供の頃に車窓から眺めた、東北地方の景色の様で、旅情豊かな思い出です。

2019/06/29 09:48:59

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