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興福寺 七転び八起き 

2019年04月29日 外部ブログ記事
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興福寺7度の火災から不死鳥のごとく蘇った

 ☆日本の文化はここで生まれた(仏師運慶・世阿弥)
 *火災から守るために生まれた乾漆造りの仏像
 *阿修羅像が重さ15キロ
 *運慶をはじめとした仏師たちの工夫
 *世阿弥は興福寺再建の為の資金集めに演劇人に
 ☆再興する歴史の中には、僧侶たちの不屈の魂
 *火災から仏像を救い出した僧侶たちの努力
 ☆興福寺は、南都六宗の一つ
 *法相宗の大本山の仏教寺院
 *藤原氏の祖・藤原鎌足らの藤原氏の氏寺

興福寺と火災と再建
 ☆現存するものは火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い
 ☆興福寺には、運慶ら慶派仏師の手になる仏像も数多く作られている
 ☆江戸時代の火災
 *時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず
 *焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった
興福寺の歴史
 ☆創建は、藤原鎌足夫人が夫の病気平癒を願う
 *鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として創建した
 ☆平城京遷都で、藤原鎌足の子不比等は、現在地に移転し「興福寺」とした
 *710年が実質的な興福寺の創建年
 *中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始された
 *天皇・皇后、藤原家によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた
 ☆「造興福寺仏殿司」という役所が設けられた
 *藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められる
 ☆興福寺は、奈良時代(四大寺)、平安時代(七大寺)の一つに数えられた
 ☆鎌倉・室町時代興福寺は、大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていた
 *幕府は守護や守護大名を置くことができなかった
 *大和国は実質的に興福寺の支配下にあった
 ☆安土桃山時代の織豊政権に興福寺は屈する
 ☆江戸時代、春日社興福寺合体の知行として約2万石とされた
廃仏毀釈による興福寺の破壊
 ☆明治時代の、神仏分離令で、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こした
 ☆春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった
 ☆興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主
 *還俗し水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)
 ☆子院は全て廃止、寺領はの上知令で没収され、僧は春日社の神職となった
 ☆境内は塀が取り払われ、樹木が植えられ、奈良公園の一部となった
 ☆廃仏政策が反省されだし興福寺の再興が許可された
 ☆興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備される
 ☆興福寺には、塀が無く公園の中に寺院がある
 *興福寺は「信仰の動線」が欠落していると言われている
 *廃仏毀釈の名残である
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、NHK『歴史秘話ヒストリア』
















興福寺7度の火災から不死鳥のごとく蘇った
(『歴史秘話ヒストリア』テレビ画面より画像引用)

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