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平成の虚無僧一路の日記

網走は会津藩領だった 

2019年01月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



会津藩が北海道をプロイセン(ドイツ)に売り渡そうとしていた話。会津藩にそんな権限があったのだろうか。実は、意外な事実。北海道の東、現在の根室、網走地方は幕末、会津藩領だったのだ。江戸時代半ば、ロシアが度々蝦夷地を犯すようになり、幕府は、享和2年(1802)蝦夷地を直轄地とし、文化4年(1807)から東北各藩に北方警備を命じた。文化5年(1808)会津藩は、一千人の藩兵を宗谷岬と利尻島、そして樺太に派遣した。私の先祖も、樺太警備に就き、帰路、船が遭難して 秋田に漂着して、1ヶ月半もかかって、会津に帰還している。その後、安政2年(1855)から慶応2年(1866)にかけては秋田藩が北方の警備に当たった。その一方、1859年(安政6年)会津藩は蝦夷地の一部(現在の根室、網走地方)を領地として与えられ、漁業や開拓を進めた。山国会津にとっては、網走からのニシンや昆布は貴重な蛋白源となった。1862年(文久2年)には、藩主松平容保が京都守護職に任命され、蝦夷地の防備だけでなく、京都を警備することとなり、その出費を賄うのに、北海道のニシン・昆布漁は、貴重な収入源ともなっていた。そして迎えた慶応4年(1868)の戊辰戦争。この時はすでに徳川幕府は存在しない。戦争となれば、武器弾薬が要る。文化5年(1808)以来、60年もの間、会津藩は、ロシアの南下に備えて蝦夷地の警備、ペリー来航の際は房総半島と三浦半島の警備、江戸湾にお台場の造営、そして京都守護職と、莫大な出費に苦しんでいた。それに追い討ちをかけての戊辰戦争である。「譲り渡すという判断」を下したのは、はたして誰だったのか。新たな謎である。

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