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葵から菊へ

軍医と共に広島へ派遣された陸軍軍医学校の看護婦石井十世さんの証言 

2018年12月31日 外部ブログ記事
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新宿平和委員会(会長長谷川順一)が2001年8月15日に発刊した「葵から菊へ〜 軍都新宿の歴史を訪ねる 2001年改訂版」(絶版)がある。
昨日アップした書籍「彰古館」から、「広島原爆調査資料」と「その内容については、陸軍軍医学校が被爆直後の広島へ原爆被害調査をしたことであるが、軍医と共に派遣された軍医学校の看護婦石井十世さん(故人)の貴重な証言があったので掲載したい。




俳優長谷川一夫(林長次郎)が暴漢にカミソリで頬を切られた時に、軍医学校で成形手術を受けたことも証言している。
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白衣が見た二〇世紀
          石井十世(談)


 はじめに、
 この文章は新宿平和委員会、二〇〇一年度総会において、戦中、陸軍軍医学校の看護婦さんをしていらっしやつた石井十世さんに、二〇世紀を回想していただいたものです。一九二〇年代初頭に生を受けた石井十世さんは、戦前の日本から、大正、昭和、平成と八十年にわたって生き、現在も語り部として活動しています。
 四〇星霜を超える年月を白衣で過ごされた貴重な体験の持ち主です。講演を要約して掲載いたします。特に戦中に休験した白衣の天使の実態をお読みいただければ幸いです。

私の生い立ち

 私は福島県に生まれました。当時の女性の置かれていた状態は、今では考えられない状態でした。娘が外に出て働くということはごくまれで、そういう女性を『職業婦人』と言っていました。適所の娘たちは、まずお針[和裁]を習い、ゆとりのある家庭は、お茶、お花を習ってお嫁に行くのが常識とされていました。
 こんな雰囲気の中に育つた私ですが、日本赤十字社の看護婦を目指すようになつていました。当時の軍国主義的な教育がそぅさせたのだと思っています。しかし回りからは反対されました。私は反対を押し切って試験を受けました。そして合格、看護学校に通いました。
 これがはじめて私の東京へ出てきた十八歳ニケ月の娘時代のことです。もう六十年近い東京生活ですが、私の言葉は、「おすす(おすし)にすんぶん(新聞)」に代表される福島弁がぬけません。私は、私を育みそだててくれた福島を愛し、誇りに思っているからです。お聞き苦しいでしょうが聞いていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

 看護学校を卒業、陸軍の看護婦になって

 今日の表題である 「白衣が見た二〇世紀」を語るには、どうしても「第二次世界大戦・太平洋戦争当時の軍医学校の様子を語るのが私にしてみれば適切ではないかと考えます。それは、私が看護婦の学校を出て軍の看護婦になるための養成期間を終わるとすぐに召集され、戦争中の軍医学校(現在の国立国際医療センター)で働いていたからです。
 当時を振り返ってみると私は、日赤の看護学校を卒業し、陸軍の看護婦になるための研修を受けるために、当時戸山町にあった軍医学校へ、渋谷の高木町から三十分ぐらい歩いて通いました。三ケ月の養成期間を一日も休みませんでした。養成期間を終わると正式の陸軍の看護婦です。卒業と同時にいつ召集がくるかわからないと言われましたが、まさかと思い郷里へ帰りました。すると郷里に着くなり,家で怒られました。
 「お前は何をしている」と赤紙(召集令状)を見せられました。看護婦の養成所を無事卒業して郷里へ帰った瞬間であり、時間に間に合わず初めてうそをつきました。『父危篤のため、次回に回してほしい』この電報を打とうとして郵便局で窓口に出そうとしましたが、あまり慌てていたのでお金を持っていません。係りの方に「ことは急を要するので電文だけ先に打って置いて、すぐ家に帰ってお金を持ってくるから」と哀願すると、係りの方は、「あなたの持っているのは『赤紙』でしょう赤紙を持っている方の電報はただですよ」といわれて胸をなでおろしたことが思い出されます。しかし、一ケ月過ぎると約束通り二回目の赤紙がきて、軍医学校に配属されました。
 この時のエピソードを紹介しておきます。配属先が 「航空外科」といわれ、大変喜んだのです。若い、何も知らない娘たちは、当時人気の高かつた飛行機乗りの看護をするものだと思いこんでいたのです。然し、行ってみると配属先は口の中の 「口腔外科」だったのです。(笑い)
 こんなことで、口腔外科で働くようになつたのですが、その時の仲間は二十一人でした。口腔外科の仕事は大変でした。総人員は一三八名、戦場で口に弾が入った兵隊さん。あるいは顔を貫通しても命だけ助かった人。すべて口の中の負傷兵がくるのですから、当然のことに口が聞けない。何かを言っているのだが意味がわからない。こうした兵隊さんのことも、毎日看病していると意味がわかるようになる。結果的には通訳の役割を果たす事もしばしばでした。

 私たち看護婦の待遇

 私たちの待遇を紹介しておきます。仕事は、大変でしたがよかったと思っています。当時のお巡りさん(サーベルを下げて肩章をつけて威張っていた。)の給料が四人家族で月給三十五円だったようですが、看護婦である私の給料は三十八円いただいていました。仕事は大変だったが、当時の軍関係の待遇はよかつたと思います。

  戦争末期の空襲時は

 空襲時の生活に入っていきましょう一九四四(昭和十九)年の軟から東京も空襲警報の発令が時々あるようになり、それは次第にはげしくなつてきました。私たち看護婦もゆつくり寝ることはできませんでした。例を言えば敗戦まで、靴を抜いて寝ることはありませんでした。三日や四日家に帰れないことはしばしばでした。三月十日の東京大空襲のときは応援に行ったのですが、大変でした。このときも三日ばかり家に帰れなかったし、隅田川に死体がいっぱい浮かんでいました。この死体を引
き上げる(片付ける)のが仕事でした。本当は手厚く葬らなければいけないのですが、天皇陛下が視察にくるというので急いだようです。(本当に戦争は嫌、再び戦争をやってはいけませんね。)当時の食べ物はどうだったのでしょうか、私たちの食膳に並ぶものは、米粒は数えるほどしかなく、麦、大豆などが入っていれば良いほうで、葉っぱ類が入った雑炊が、毎日の食事だつたのです。若いから何とか持ったし、また当時の雰囲気は夢中で過ごしていましたから平気だったのです。
 私たちの働いていた軍医学校はこの空襲時はどうだったのでしょう。軍の学校と言っても病院ですし、隣に済生会病院がありましたし、大きな赤十字のマークの入った旗を広げておくのですが、それでも空襲は受けました。その当時の陸軍病院は六千人もの患者を抱えていました。現在の箱根山,戸山ハイツの防空壕に空襲がくると移すのですから大変です。空襲警報が解除されるとまた病室に戻します。
 患者には番号が付けられていました。点呼のときは、第何号異常なし、こういう報告をするのです。こうした作業の繰り返しで、毎日のように空襲がくるのですから本当に生きた心地はしませんでした。繰り返しなりますが『戦争はやってはいけない』と思います。

 軍医学校の技術水準は一流

 軍医学校のもう少し前はどうだったのでしょう。とにかく軍関係が権力を握っていたのですから、優秀な科学、医学者がそろつていました。このため、天皇も行幸されているし、皇族や軍の高官もほとんどが病気になるとここで治療を受けていました。東条英機首相もその一人でした。歌舞伎俳優で端役だったが、映画出演で有名になり、松竹から東宝への移籍をめぐつてのトラブルで顔面を切られた林長次郎が、この軍医学校で成形手術をしてもらい、俳優として再起不能と言われた顔をきれいに治し長谷川一夫で、再デビューしたというエピソードも残っ
ています。

 箱根山周辺とお偉方

 それと、軍医学校に隣接する箱根山の傍に戸山学校の将校会議室がありました。現在のキリスト教の戸山教会になつているところです。戦争中は時のヒーローであつた東条英機首相も黒塗りの車で来たのを覚えています。昔の軍隊は、将官、佐官、と乗っている軍人の階級によって旗を立てていましたから、大体どのくらいえらい人が集まって会議をやっているかわかるのです。東條さんをはじめ、大勢の将官、佐官が集まると、重要な会議が開かれているということが想像できるわけです。今は、
昔の面影を残すのは石垣と地下室ですが、もうひとつ疑問に思つていることがあります。それは地下道のことです。前にも書きましたが、当時の軍医学校の隣が済生会病院でした。そことの行き来は,一階は渡り廊下で結ばれていました。ほとんど境がないようなものです。地下にはトラックが通れるような広い地下道がありました。この地下道はどこまでつながっていたのだろうか?もしかして、市谷の大本営までつながっていたのかもしれません。

 人骨の発見は

 話があちらこちらに飛びますが,十年前に出た人骨(遺骨)の諸に移していきましょう。昔の防疫研究室跡から出たのです。このところは、原っぱでしたが、昔、ここに防疫研究所があつたということで、品川にあつた国立予防研究所が、ここに移ると発表されました。地域の住民は、エイズなどの研究をするというので、実験用のネズミなどが逃げ出したら大変だと反対していましたが、強引に招かれざる客はきてしまいました。
 この工事中に出てきたのです。今は名前を国立感染症研究所といっていますが、正門を入ってビル左側の谷間のようなところです。
 然し、この骨は、何の骨なのでしょうか、私の推測では、軍医学校の脳外科の生徒はクラスが四十人位で、各人が、本物の頭のミイラを渡されて、教育を受けていました。その頭蓋骨はどこから持ってきたのか知りませんが、中には頭を貫通されたものもあり、弾の入ったところは小さくて、抜けたところは三倍ぐらいの直径になるとの説明も具体的に頭蓋骨を示しながら教えていましたから、其の教育材料の骨ではないかと推測しています。作家の森村誠一さんが書いていらっしやる三階建のピルほどの,穴を掘って埋めたというのは、感染症研究所の前の道を箱根山の方へ下っていくと、運動場になっているところがあります。それを過ぎたところに今は三階の住宅になっているところがちります。このあたりが、敗戦後は木造の住宅で、軍医学校(敗戦後は国立東京第一病院)のお医者さんの住宅になつていました。其の中で松下さんという方と懇意でしたが、「戸山ハイツも、鉄筋のモダンな住宅になっているし、お医者さんが、木造の住宅では格好悪いし、不便でしょう」とこんな会話をしたことがありますが、「あそこはねえ、いろいろあつてねえ」と言葉を濁しながら意味ありげなことをいっておりました。こんなお話と、私の軍医学校で働いた経歴、敗戦後の状況などを考えますと、「あそこはねえ」と松下さんが、言い、なかなか、あの場所を離れなかったことを考え合わせると、ほぼ間違いないと考えています。
 そして、ようやく因縁の場所を過ぎて、箱根山の近くに出ます。公衆便所のあるところを左に折れれば、戸山軍楽学校の演奏を行った場所が復元されています。
 ここには、箱根山の由来や陸軍戸山学校跡の石碑も建てられています。少し上がると箱根山です。先に述べましたが、空襲の激しいときは、格好の防空壕の候補地です。横穴を掘って防空壕の使っていましたから空洞化していました。今はすっかり埋められてしまったと思いますが、

 輸送船の沈没で命拾い

 次に私の命拾いをしたことをお話いたします。軍医学校で内地勤務だった私にも戦争の激しくなった一九四四年(昭和十九)外地派遣の命令がきました。然し、当時の戦況は、制海権も制空権も、米軍に握られていました。
 私たちの乗る輸送船が戦地からの引き上げる軍人や軍属(ほとんどが戦傷者)を乗せていました。この輸送船が、日本の港に着くとこれと引き換えに、私たちは戦地に行くことになっていたのです。先に述べましたように、大本営発表とは裏腹に、日本近海にいたるまでアメリカに制空・制海権を握られていました。戦地から引き上げてきて日本の陸地がみえるような近さまで来て、ああ日本・本土が見える、兵隊さんたちや軍属の方たち望貴びの声を上げました。其の時、アメリカの魚雷にあつて沈没してしまったのです。若く元気な泳ぎの達者な何人かは陸地まで泳ぎ着きましたが、その他の人たちは全滅です。そのお陰で、私たちは乗っていく船がなくなったので戦地への命令は実行できなくなり助かったのです。

 広島へ行って(原爆患者の介護について)

 広島・長崎の原爆投下については、皆さん知らない方はいらつしやらないと思います。敗戦間際の一九四五年八月六日、広島に人類史上はじめて原爆が投下されています。この投下現場に看護婦を派遣することになり、私にもこの命令が来ました。私たちは軍医学校という特殊な所にいたため非公式に、原爆の危険性を察知しておりましたので、嫌だと一度は断りましたが行かざるを得ませんでした。そして、広島へ行きました。行って見ると、本当に地獄そのものでした。患者の方は,息も絶え絶えの人、元気でも皮膚がむけて、見る影もありませんでした。然し、薬はなく治療するすべもありません、短い期間でしたが地獄絵を見ました。私たちは軍医学校という特殊なところにいたので、情報は一般の人から比べると入っておりましたので、大本営発表を信用してはいませんでした。質問のあった戦争は勝てると思ったかの問いには、はじめは、教育の影響もあつて勝つと思っていました。然し、昭和十九年頃からは怪しくなり、空襲の激しくなつたころは、到底勝つとは思ってはいませんでした。だが、負けるなどと言うと憲兵に締まり何をされるかわかりませんので、口に出しては言えませんでした。戦争とはそういうものです。私はもう八十歳になります。戦争は嫌です。
 もうひとつ、恋愛についての質問もありました。生い立ちに書いておきましたが、当時は恋愛という言葉さえなかったと思います。まして軍医学校です。男性ばかりの社会ですから、好きな人ができてもよさそうなものですが、先輩の婦長さんなども、独身ですので、良い男がいて、色目でも使おうものなら、今流に言えば『オールドミス』の先輩にいじめられ、そうした雰囲気はありませんでした。
 あまり良い話ではありませんが、最後にもう一度、戦争中に青春をすごした先輩として、暗い嫌な戦争時代をこれからの若い人たちに味わせたくない気持ちをお伝えし、どうかがんばつて、戦争のない世界をつくってとお願いして私のお話をおわらしていただきます。
                   (文責・松田修次)
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石井十世さんの証言に関連する画像

銃弾跡がある頭骨 (詳細は「人骨の会」公式サイトをご参照下さい。)

国立感染症研究所

人骨が発見された当時の工事現場(元新宿区議川村一之さん提供)

国立国際医療研究センター(東京第一臨時陸軍病院)の擁壁にある地下道入口(人骨の会サイトより)

人骨が発見された後は、塞がれてしまった。

陸軍戸山学校将校会議室跡

会議室跡の上部に建っている戸山教会と戸山幼稚園

防疫研究所跡の新宿区多目的運動広場



厚生省宿舎(現在は解体されている。)

陸軍戸山学校記念碑

陸軍戸山学校軍楽隊練習場跡


(了)
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このブログ記事を以て、本年の更新を終了します。
ご訪問有り難うございました。
来年もよろしくお願いします。

管理人拝
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