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書籍「彰古館」から、「広島原爆調査資料」と「その内容について」 

2018年12月30日 外部ブログ記事
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以前のブログ記事で>乃木希典殉死の日に旧乃木邸が公開<をアップしたことがある。
日露戦争で露西亜軍ステッセル将軍と乃木希典が水師営の調印式の時、野戦病院手術台を二台並べて臨時のテーブルにした。
二台の手術台の内、一台は中国水師営記念館に、もう一台は旧乃木邸に展示されている。
その経緯は、防衛ホーム新聞社刊「彰古館」からの知識だった。
この書籍は、「南京民間抗日戦争博物館に寄贈」していたので、改めて防衛ホーム新聞社から購入した。



ブログ記事>「陸軍軍医学校原子爆弾調査報告資料」を世田谷原水協に報告<に関連して、この書籍中「広島原爆資料」「その内容」を転載したい。
平成14年3月から21年5月まで防衛ホーム新聞に掲載されたものであるが、学芸員で彰古館の担当自衛官木村益雄氏が執筆したと聞き及んでいる。

写真は管理人が、防衛大臣に開示請求した文書から





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はじめに
 東京都世田谷区に所在する陸上自衛隊三宿駐屯地には、自衛隊衛生職種の教育機関、陸上自衛隊衛生学校があり、その校内に「彰古館」が開設されています。彰古館は医療史博物館として内外に認識され、明治初期から現在に至る貴重な史料が収集・展示されています。
 もちろん各大学医学部や医療機器・医薬品メーカー等にも医療関係の博物館は多数ありますが、彰古館には、明治以来の戦時医療の史料が充実していることが特色となっています。
 よく「戦争と医学の発展は切り離して考えることは出来ない」と言われます。不幸なことですが、過去の歴史において戦争での兵器の発達によって戦傷が多様化し、新しい治療方法や医療機器が開発されたという事実があります。
 こうした史実を研究する際にネックとなるのが、現存史料の少なさです。軍関係の資料は、戦災と終戦時の焼却・散逸に加え、戦後それまでのドイツ式医学からアメリカ式医学へ変革したため、要らないものとして処分されています。
 彰古館には奇跡的に戟災や接収から逃れた、明治維新以来の軍医学校参考館所蔵品や、戦後になつて大東亜戦争衛生史編纂の参考資料として多方面から寄せられた資料・医療機器が集められているのです。
 所蔵品は旧陸海軍関係だけではなく、日本赤十字社、大学等を含む民間、警察予備隊、保安隊、陸上自衛隊などの医療史に及び、見学者は衛生職種のほか、各職種の自衛隊員、一般の大学等の研究者や民間の医療従事者、マスコミ関係者も含め年間約千人が訪れています。
 歴史の流れの中で、軍関係の事跡だけを省いて医療史をまとめることは出来ません。彰古館には、すでに失われたと思われていた歴史の生き証人の品々が、ひっそりと、しかし大切に保存されているのです。
本書では彰古館の所蔵品から、歴史的に面白い逸品を紹介していきます。
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広島原爆調査資料

 平成19年(2007)10月、彰古館は今まで未着手だった550点の一次史料の調査を実施しました。その中から、広島原爆被災時の調査報告書と関連資料が新たに発見されました。
 その一冊は「昭和二〇年一一月三〇日原子爆弾に依る廣島戦災医学調査報告」で、発行は「陸軍軍医学校」「臨時陸軍病院」とありました。
 陸軍軍医学校は、昭和20年(1945)8月7日(原子爆弾投下の翌日)、陸軍省医務局から 「広島に従来とは異なる特殊な爆撃が行われ、その被害は甚大である。この対策として、職員らを派遣して、(1)爆撃の惨害を確認し(2)被害者診療の指導方針を決定し(3)将来に於ける防護の対策を樹立する」という命令を受けます。陸軍軍医学校は、調査団と治療班の派遣を決定し、特殊爆弾がウラニウム爆弾(原子爆弾)の可能性が高いと、仁科研究所で学校高級副官がレクチャーを受けます。翌日、東海道線不通のため、立川から飛行機で調査員が現地入りしました。8月10日、調査団は日赤広島病院の地下に保管されていたX線フィルムが感光していることから、放射能の存在を確認しました。同時に、アメリカ軍のラジオ放送を傍受した陸軍省も、原子爆弾だと認識します。
 当初は医学面から「将来に於ける防護の対策」を模索します。必ず肌着を着用し、白い服を着ることなどを徹底させています。
 その間に9日には長崎が被爆し、15日には終戦を迎えます。調査団は目的を「治療方法の調査」に変更して調査を続行しました。
同時に、外科担当の軍医を削減し、内科、口腔外科、皮膚・泌尿器科、放射線科、病理、衛生などの専門医を増強しています。その後は米軍の調査団とも合流し、合同調査が行われ、救護班も米軍の支援を受けながら治療を続行しました。
 報告書が発行された11月30日は、物理、化学、医学などの各界の識者が参集して原子爆弾災害調査研究特別委員会の第1回報告会が開催されています。
 また、この日は終戦処理を終えた陸軍省が廃止となつた日です。同時に隷下の医務局も廃止、その隷下の陸軍軍医学校も廃校処分となつています。この報告書は、陸軍軍医学校として発行された最後の報告書ということになります。
 その表紙裏には「本報告ヲ敢闘空シク斃(タオ)レタル多数ノ同胞ノ霊二捧グ」と書かれています。またこの2ページには、広島の荒廃した廃墟の絵が書かれています。軍の正式な報告書の体裁としては、極めて異例なものと言えます。
 報告書の内容は終戟から8年を経た昭和28年(1953)に日本学術振興会から、ほかの多方面の調査報告書と共に出版されています。広島平和記念資料館にも同じ報告書が収蔵されています。編集作業を急いだのでしょう。タイプ打ちのガリ版刷りで、酸性紙は限界を超えて、崩壊寸前切状態です。
 内容の精査と共に、貴重な一次史料の保存方法の検討が始まっています。

広島原爆関係資料

 今回確認された「原子爆弾に依る広島戦災医学的調査報告」ですが、終戦後の極端に物資が不足していた時代に発行したため、発行部数は僅かだったようです。
 また、紙質は酸性のわら半紙です。すでに酸性紙の限界といわれる50年を超えた年月を経て、触るとポロポロと端から砕けてしまうような状態です。
 貴重な原本資料を今後どうやって継承していくか、選択の余地は余りありません。一般的には、酸性紙を中性紙化する脱酸性化処理があります。しかし、ここまで原本の状態が劣悪の場合は、紙としての補修が必要になります。最新のリーフキャスティング法という補修法は、紙を漉く課程に劣化した原本そのものを織り込む方法です。
 市ヶ谷台で、旧陸軍の大本営が焼却した、燃え残りの文書が大量に発見された際にも採用された技法です。
 リーフキャスティング法を採ることで、中性紙化や電子ファイル化の作業は格段に効率化するという、副次的な効果も期待できます。
 こういった役務は、なかなか予算化が難しい側面がありますが、歴史保存の観点から必須の作業です。
 今回、調査報告書と同時に確認された史料に、占領軍の調査団のためにこの報告書を英訳したメディカル・レポートがあります。B4版わら半紙100ページに、タイプで打たれたものです。こちらは、従来知られていなかった史料です。占領下での報告書なので、純然たる医学の学術資料としての体裁を採っており、日本語版のような「敢闘空しく倒れたる多数の同胞の霊に捧げる」といった叙情的な文責は1行もありません。逆に、淡々と事実を客観的にタイプで打ち込んである、その冷静さが、逆に原爆被害の凄惨さを無言で伝えています。
 基本的には「原子爆弾に依る広島戦災医学的調査報告」の英訳ですが、同じ内容でもずいぶん印象が違うものです。このメディカル・レポートも、やはり早急に補修作業が必要です。
 この報告書が発簡された昭和20年(1945)11月30日には、学術研究会議が主催する原子爆弾災害調査研究特別委員会の報告会が開催されております。今回の調査で、その速記録も確認されています。
 学術会議は、医学面だけではなく、物理学化学学科会の物理班、同じく化学班、同じく地学班、生物学科会、機械金属学科会、土木建築学科会、農学水産学科会からなり、それぞれの専門分野から、調査研究の中間報告が出されております。
 当然のことながら、会議が開催された同日付けで廃校となった陸軍軍医学校の名前は、速記録には記載されておりません。「原子爆弾に依る広島戦災医学的調査報告」を最後に、陸軍医学校と臨時東京第一陸軍病院の名前は、公文書から永久に姿を消したのです。
 陸軍軍医学校としては調査・研究活動を終えましたが、ほかにも翌昭和21年(1946)2月26日に開催された第2回原子爆弾災害調査研究特別委員会報告会速記録や、100枚を超える図表、報告書が確認されています。これらの一次史料も、現在の医学の目で見た再評価を急いでおります。

広島原爆調査資料の内容

 この報告書は、陸軍軍医学校と東京第一臨時陸軍病院の調査団、救護班に加え、いち早く救護活動を開始した現地の広島第二陸軍病院や似島臨時野戦病院、福岡陸軍病院、姫路陸軍病院、船舶衛生機関などの報告も統括し、時系列に沿って各科の専門医の立場からまとめられたものです。戦後、この報告書は東京帝国大学外科教授の羽田野茂教授をして「全国の各大学、研究所、各種学会の調査報告書の中でも白眉である」と絶賛されたといいます。
 その内容は
第一章 緒言
第二章 人的被害の状況
第三章 外傷
第四章 火傷
第五章 原子爆弾症1
第六章 原子爆弾症2
第七章 病理解剖組織学的所見
第八章 爆発後被曝地帯に入りたる者に対する傷害
第九章 特殊地帯に於ける傷害について
第十章 放射能について
第十一章 考按
第十二章 将来に対する意見
 となっています。
 記述のほとんどは、純然たる医学的所見です。
 最初の緒言では、それまで歴史に存在しなかった原子爆弾の災害に臨んで、陸軍軍医学校最後の報告書が、多少なりとも寄与することを願い、現地衛生部員の払った努力に報いたいと結ばれています。
 第二章の人的被害の状況においては、外傷、火傷、原子爆弾症の3種の形態を示唆しています。
 その原因として爆風、熱線、光線、紫外線、放射線、γ線を挙げています。
 この報告書を閲覧した専門家の立場から陸上自衛隊開発実験団部隊医学実験隊の山本哲生3等陸佐は「人体が高線量の被曝をすることは稀な現象である。そのため、現在の放射線の人体影響に関する教科書は、原爆調査や被曝事故のデータや記録をもとに書かれている。彰古館で見つかった原爆調査資料は、先人たちが予備知識が少ない中、被爆の影響について緻密に調べた記録である。厳しい戦況の中で、当時の日本の科学者達が、持てる能力の全てを用いて新兵器に対処しょうという気概を感じる。このような貴重な記録は、我々にとって科学者のあるべき姿を教えてくれるものであり、また敗戦によってこれまで顧みられることが無かった、先人の医療に対する想いが分かる資料である。これらが 永遠に保存され続けることを望む」と述べており、放射能障害の専門医が現在の科学者の目で見ても、報告書が立派な内容であると評価しております。
 敗戦で自暴自棄になることも無く、残留放射能による自らの白血球の減少を知りながらも、黙々と治療と調査を続けた軍医達の想いは、報告書をまとめることで自らの軍歴にも終止符を打つことだったのでしょう。
 陸軍軍医学校としての最期の報告書は、軍医たちにとっても陸軍所属の軍医として最期の仕事でした。
 崩壊が進んだ報告書は、いずれ「かつて原本だった」という事実しか残らなくなつてしまいます。現時点での最新の技術で、酸化を防ぎ、次世代に継承する必要があるのです。
・・・・・・・・・・・・・・

(続く)

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