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徳川幕府の鎖国政策を検証 

2018年12月30日 外部ブログ記事
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江戸時代1

江戸幕府の幕藩体制
 ☆家康は江戸幕府の支配するための法律「武家諸法度」を制定
 *200人前後いた全国の大名たちを管理下に置いた
 ☆大名とは1万石以上の領地を持つ者
 *江戸時代初期には全国で200人、中期以降は270人ほど
 ☆1人の人間が年間で食べる米の量はおよそ1石
 1万石の藩は、1万人の人間を養える国力がある
 ☆全国の土地は、藩主が支配し法律も藩ごとに違っていた
 *藩により、領内でしか通用しない「藩札」を使用していた
 *「分国法」に近いものが江戸時代にも受け継がれていた
 ☆「幕藩体制」の制度は、日本独特の封建体制
 *各藩は江戸幕府の命令には逆らうことができず
 *改易等の命令が下った時には、従うほかはなかった
 ☆江戸時代に改易を命じられた大名家は、248家にも及ぶ
家康は全国の諸藩を三つに分類した
 ☆徳川家の血筋を引く「親藩」
 ☆関ヶ原の戦い以前から徳川家に忠誠を誓っていた「譜代」
 ☆関ヶ原の戦い以後に服従した「外様」
 *親藩や譜代の多くは、石高は少ないが要地を与えられていた
 *外様の多くは、石高は多くても僻地に追いやられていた
 *外様は軍役などの負担も重く財政的にも苦しめられていた
 ☆幕府の管理体制
 *朝廷には「禁中並公家諸法度」
 *寺院には「寺院法度」、神社には「諸社禰宜神主法度」
幕府を開くことができるのは征夷大将軍
 ☆征夷大将軍は、源氏の血を引いている武士でなければならないという不文律があった
 ☆家康は系譜を書き換え、自分の祖父は源氏の流れを汲んでいるとした
 *氏を源と自称し、征夷大将軍の地位を得た
 *公式には徳川家康の正式名は源家康
 ☆後の徳川将軍も、国の公式文書などには「源○○」と署名している
 ☆徳川の血を引く松平一族も同じ
 *会津藩主、松平容保も正式名は源容保
 ☆豊臣秀吉も征夷大将軍の座に就こうとしてた
 *足利義昭の養子になろうと画策したが、義昭の拒絶にあって叶わなかった
三代将軍徳川家光
 ☆家光は、大名たちの改易、減封、転封を行ない、巧みに彼らの力を削いだ 
 ☆参勤交代と江戸屋敷に妻子を置くことを命じるなどの制度を取り入れた
 *大名たちに大きな負担を強いた(各藩とも江戸に大名屋敷を建てた)
 ☆江戸の7割を大名屋敷が占める
 *人口の大部分を占める約50万人の町人たち、1割の土地に住む
 ☆江戸幕府は、諸藩が力を蓄えられないようにする施策でした
江戸幕府の政治体制
 ☆政治は老中と呼ばれる者たちが執り行なった(老中は現代風にいえば首相)
 *老中は、親藩や譜代大名の中から有能な者が選ばれた
 *老中は、外様大名から選ばれることはなかった
 ☆将軍は世襲
 *本家の血筋が絶えた時のために、家康の血を引く大名をこしらえた
 *家康の脳裏に、三代で絶えた鎌倉の源氏将軍のことがあった
 ☆水戸藩は変わった藩で、伝統的に皇室に対する尊崇の念が特に強かった
江戸時代の鎖国
 ☆家光の時代に行なわれた
 *鎖国に至った理由の一つは「島原の乱」
 ☆幕府はキリスト教に対する弾圧を一層強めた
 ☆オランダと中国(明、清)以外の外国船の入港を禁じた
 *他に交易を許されたのは朝鮮と琉球国だけ
 *窓口は、長崎、対馬、薩摩、松前の4つに限られた
 ☆日本は世界に背を向けて、 1国平和主義を目指した
 *鎖国が、200年以上も続いたのは地理的条件に恵まれていたから
 ☆琉球国は、二重外交を続けた
 *薩摩藩に服属し、明の冊封(後に清の冊封)も受けていた
 ☆蝦夷地(現在の北海道)
 *17世紀になってからは松前藩に支配された
 *アイヌの祖先は北海道に暮らしていた縄文人?
日本が鎖国政策を取らなかった場合
 ☆世界有数の鉄砲保有国であった日本の兵力で、東南アジアを支配下に収めていたのでは
 *日本の進出経路は、インドシナ半島からビルマ経由でインド
 *17世紀の後半に、インドの支配でイギリスと1戦交えていた可能性が高い
 *戦いは海戦になったであろうが、イギリス海軍が若干有利だったのでは
 ☆朝鮮半島に進出していたならば、朝鮮軍は日本軍の敵ではない
 *崩壊寸前だった明には朝鮮に援軍を送る力はない
 *朝鮮半島は日本の支配下に置かれたであろう
 *日本はそのまま大陸へ進出し、明を減ばしていたかもしれない
 *女真族が率いる後金(清)との対決で、日本軍はあるいは敗れたかもしれない
日本には虐殺によって他国を完全服従させ、他民族を奴隷化するという伝統はない
 ☆ヨーロッパは古代からそうである
 ☆後にヨーロッパ諸国が行なったように中国大陸や東南アジアを支配できなかったのでは
 ☆逆に大東亜文化圏のようなものが生まれ、膨張するヨーロッパ諸国に対抗しえたかもしれない
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『日本国紀』








徳川幕府の鎖国政策を検証(ネットより画像引用)

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